『これは学園ラブコメです。』感想

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1 前書き

 

お久しぶりです。ということで、『これは学園ラブコメです。』を読み終えました。今回は本作品への所感を纏めていきます。また、以下の内容にはネタバレが含まれております。ご注意ください。

 

2 あらすじ

 

高城圭は平凡な日常を送っていた。しかし、ある時、不慮の事故に見舞われてしまう。目を覚ますと、圭のまえには白い空間が広がっており、そこには言及塔まどかと名乗る女性がいた。曰く、圭が不慮の事故に見舞われたことで学園ラブコメとしての強度が落ちてしまい、このままでは『これは学園ラブコメです。』の虚構を司る力が崩壊し、「なんでもあり」が侵入してしまう。それを防ぐためには学園ラブコメとしてのシナリオを遂行しなければならない。かくして、圭とまどかは協力関係をとりむすぶ……

 

以上が大まかなあらすじになります。が、これでは説明が不足しがちなため、本作品の背景設定の確認を進めていきます。

 

まず、「学園ラブコメとしての強度が落ちてしまう」とはどのようなことか。これを理解するために本作品の文章を引用したい。

 

「そうだ。性質が互いに結合する力には秩序がある。秩序のもとで、キャラクターが生まれ、さらにキャラクターが筋道だった出来事を起こすことでフィクションができる。決して、なんでもありではないんだ。フィクションをつくる力は秩序だっている」

 

まどかによると、キャラクターはいくつかの性質のもとに成り立っている。たとえば、本作品のキャラクターの一人、河沢素子はピンク髪、ミディアムボブ、元気、世話焼き、料理下手、幼馴染、女性、高校生、可愛い という性質から構成されている。そして、これらの性質が結合する力には秩序がある。本作品では、「ツンデレツインテールと金髪とお嬢様は互いに結びつきやすい」とされている。このように、秩序のもとにキャラクターが構成され、そのキャラクターたちが関係することによって、作品が形作られる。

 

しかし、圭が不慮の事故に見舞われたことによって、『これは学園ラブコメです。』の学園ラブコメとしての強度が落ちてしまった。つまり、学園ラブコメというジャンルもいくつかの性質のもとに成り立っており、不慮の事故という出来事の性質はそれらの要素と噛み合わないと言える。そのため、学園ラブコメとしての強度が落ちてしまったと言えるだろう。

 

次に「なんでもあり」とは何かを確認したい。まどかによれば、

 

「なんでもあり」とは「反秩序的に性質が結合した結果生じるキャラクターと、その集合体であるフィクション」

 

とされている。例として、「髪が赤であり青であるお嬢様」が挙げられている。先述したように、通常のフィクションのキャラクターは何らかの秩序のもとにいくつかの性質が結合することで形作られるが、「なんでもあり」の場合はそれらの性質が無秩序に結合するとされている。だからこそ、そこには「赤であり青」といったように矛盾が生じてしまう。

 

そして、ジャンルとしての強度が落ちてしまうと、他ジャンルの侵入を許してしまうことに繋がり、それが続くと物語の整合性がとれなくなり、「なんでもあり」になってしまう。かくして、圭とまどかは協力関係を結ぶこととなった。

 

以上が背景設定についての確認となります。次に、本作品についての所感の確認を進めていきます。

 

3 所感

 

本作品では、キャラクターの自由意志についての問題が巧みに描かれていました。以下では、そのことの確認を進めていきます。

 

圭とまどかは学園ラブコメとしてのシナリオを遂行するために奔走する。しかし、そのなかで他のジャンルの侵入を許してしまう。それはファンタジーやSFなどのジャンルであり、それらが侵入すると、『これは学園ラブコメです。』のキャラクターたちはそれらのジャンルの秩序にのまれてしまう。そして、圭はある事実に気付いてしまう。ジャンルという秩序がキャラクターを形作るということは、キャラクターがどのような人物であるかは作品のジャンルに従属しているということだ。だからこそ、ファンタジーやSFなどが侵入してくると、キャラクターたちはそのジャンルの文脈に飲み込まれてしまい、その在り方を変えてしまう。

 

そして、このようにキャラクターが秩序に従属しているということはキャラクターは物語の奴隷であり、そこに自由意志は介在しないかもしれない という可能性を浮き彫りにする。

 

その可能性に絶望し、圭たちは「なんでもあり」の侵入を許してしまう。そして、『これは学園ラブコメです。』の秩序は崩壊し始める。しかし、圭とまどかは必死の努力で「なんでもあり」が侵入してくることを食い止める。

 

ここで重要なことは作品の秩序が崩壊してしまったにもかかわらず、圭たち、キャラクターは残存しているということだ。

 

先に確認したように、キャラクターが秩序に従属しているということは事実ではあるのだろう(この作品においては)しかし、それが全てではない。秩序がキャラクターを規定するように、キャラクターが秩序を形作ることもある。だからこそ、「なんでもあり」が侵入してきたなか、圭たちは残存し、新たに秩序を形作ることによって、物語を終わりに導くことができたのだろう。その意味で、キャラクターと秩序の関係性は一方向性のものではなく、双方向性のものであると言えるだろう。

 

しかし、ここで留意しておきたいことは、上位の視点に立つと、「なんでもあり」という無秩序の侵入という一連のストーリもある種の秩序のもとに成り立っているということだ。確かに、「なんでもあり」侵入後の『これは学園ラブコメです。』では荒唐無稽な話が展開され始めるが(それまでにも荒唐無稽な展開は続いていたが)、あくまでも、それは「無秩序の侵入に抵抗し、秩序を作り出す」というラインのもとにストーリが展開されている。そのことから、そこには秩序があると言える。

 

そして、そこには秩序があるということは、圭たちは秩序から解放されたかのように見えて、その実は秩序に従属しているということだ。

 

その意味で、本作品の「キャラクターに自由意志がある」という展開はある種の詐術であると言えるかもしれない。

 

しかし、そうであったとしても、自分は「キャラクターに自由意志がある」かのように思わされた。そこにこの作品の凄みがあるのではないだろうか?

 

4 後書き

 

ということで、『これは学園ラブコメです。』の感想でした。個人的に、楽しむことができました。過去の作品も追ってみたいなぁと思いました。

 

『電波女と青春男』雑感

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電波女と青春男』は、入間人間/著・ブリキ/イラストによる日本のライトノベル、およびそれを原作とするメディアミックス作品[i] である。また、原作は電撃文庫から出版されており、全九巻から成る。

 

さて、本作品は、高校生の丹羽真が、両親の海外赴任から親元を離れ、叔母の藤和女々のもとで世話になるところから始まる。そして、藤和家には自身を「宇宙人」と騙る少女、藤和エリオがいた。真はエリオの奇怪な言動に当惑を覚えつつも、彼女を放っておくことができず、それに巻き込まれていく……

 

以上が『電波女と青春男 一巻』のあらすじとなる。

 

以下では、『電波女と青春男』への雑感を纏める。第一に、エリオの「宇宙人」とは何かを確認する。そして、第二に、何故、エリオは「宇宙人」であることを必要とするかを確認する。最後に、エリオにとっての「宇宙人」を否定することを確認し、これを結びとしたい。

 

1.「宇宙人」とは何か。

 

そもそも、宇宙人とは何か。それを確認するにあたって、エリオの背景への理解が必要となる。そのため、どのようにして、エリオは「宇宙人」となったのかを確認したい。

 

「六月。普通に下校するはずのあの子は気付いたら、十一月の海に浮かんでいた。この間の記憶と足取り、警察が調べたんだけど本当に何も分からなかったらしくて……少なくとも、エリオに、半年間の記憶がないことは証明されてるわ。あの子、簡単に言えば記憶喪失なのよ」[ii]

 

女々によれば、それまでのエリオは普通の高校生だったのだが、その事件を境にして、自分は「宇宙人」であると騙るようになった。つまり、彼女は元から「宇宙人」だったわけではなく、行方不明と記憶喪失という事件をきっかけに、「宇宙人」を騙るようになったと言える。

 

では、エリオにとっての宇宙人とは何か。

 

「昔から宇宙好きな子だったし、記憶がないっていう恐怖から逃避する先に、知識が豊富でごまかしの効きやすい宇宙を題材に選んだってことだと 私は思うの」

 

と、女々は語る。つまり、エリオにとっての「宇宙人」とは記憶喪失という穴を埋めるための逃避先と言えるだろう。

 

 

2.何故、エリオは宇宙人であることを必要とするか。

 

ここまでに、エリオにとっての「宇宙人」がどのようなものかを確認してきた。端的に言えば、「宇宙人」とは記憶の空白という不安からの逃避先と言えるだろう。では、何故、エリオは宇宙人であることを必要とするのだろうか。その答えについてはここまでの流れで明らかになっているところもある。先に確認したように、逃避先としての「宇宙人」はそれへの解答と言えるだろう。しかし、ここでは『電波女と青春男』の描写を取り上げ、そこでの酷薄な現実こそが「宇宙人」という逃避先の切実さを補強しているということを確認したい。

 

さて、話は『電波女と青春男 二巻』に移る。話が前後するが、諸々の事情から、真はエリオの「宇宙人」という幻想を否定し、彼女をただの地球人に戻した。そして、エリオは社会復帰への一歩を踏み出すことを決意する。エリオは社会復帰の一歩として、バイトを始めたいと宣言したのだった。真もこれには賛同し、エリオが社会復帰できるようにあれこれと手助けする。しかし、エリオを待っていたものは酷薄な現実だった。

 

「きみ、あれだよね。町中を布団被って歩いていた子の中身」「きみはねぇ。町の有名人だよねぇ。あんな恰好で歩けるなんて、度胸満点だと思うよ。うん。その割に、なんか慰安はビクビクしてるのはどうしてかなぁ」「でね、まぁ、ウチで働きたいってことなんでしょうけど あのさ、やっぱりさ、変な人を雇いたくはないでしょ?いや 君がね、お店を経営してると考えてごらんなさいよ。布団巻いてる人なんて嫌でしょ」[iii]

 

と、バイトの面接の試験官は語る。ここでの試験官の判断は「正しいか」という問題は置いておいて、経営者としての判断としては妥当なものに思える。しかし、その判断がエリオにとっての酷薄な現実であることは確かだ。確かに、「宇宙人」を騙り、「寄行」を繰り返したのはエリオだ。その意味で、これは因果応報とも言えるかもしれない。だが、このように、異質なものへの酷薄なまなざしは、「何故、エリオは宇宙人であることを必要としたのか」に示唆的だ。

 

ここで、もう一つの事例を挙げたい。エリオは当初の予定のように、バイトの面接を受けたところでは働くことは出来なかったが、女々の伝手もあって、町の駄菓子屋で働くことができるようになった。そのようななか、かつての同級生が訪れる……

 

「学校でのことを思い出してみなよ。ぶっちゃけエリオちゃんって頭おかしいし、あんま関わりたくないでしょ」[iv]

 

と、かつての同級生は語る。このように、かつての同級生は悪びれることもなく、カジュアルに他者への悪意を吐露する。これも、酷薄な現実だ。エリオは社会復帰を目標にして、駄菓子屋で働いているが、そのことは理解されることはなく、一種の営業妨害なのではないだろうかと言われる。もちろん、彼女の社会的な能力に難があることは事実であるのだろうが(それが事実として、何を言ってもよいかという問題はあるが)、ここにも、異質なものへの酷薄なまなざしがある。

 

纏めると、『電波女と青春男』の描写には、ある種の「乾き」が通底している。つまり、異質なものへの迫害のまなざしがそこにはあり、記憶喪失で異質なもののエリオにとって、それは酷薄な現実であるのかもしれない。だからこそ、エリオは宇宙人であることを必要とするのだろう。現実はあまりに酷薄だから、そこからの逃避先が必要なのだ。例え、それが真実ではないとしても。

 

 

3.宇宙人を否定すること

 

ここまでに、エリオにとっての宇宙人は何か、何故、エリオは宇宙人であることを必要とするのかを確認した。先に確認したように、『電波女と青春男』においては、異質なものへの迫害のまなざしにあふれた、酷薄な現実が描かれている。そして、エリオにとって、現実はあまりに酷薄だからこそ、その逃避先が必要なのだ。

 

では、エリオはこのままで良いのか。この問題は難しい。ある意味、エリオにとっての「宇宙人」は信仰のようなものだからこそ、そこに介入することを是とすることは微妙な問題だ。しかし、真はエリオの「宇宙人」という幻想に踏み込む。

 

「腹が立つのだ。宇宙人を後ろ向きに信じていることが、我慢ならない。それは順風とか満帆とか、そういった善意の方向よりも目につき、無視しきれない。神秘とは希望であるべきだった」[v]

 

丹羽真は語る。つまり、彼にとって、逃避のために「宇宙人」という幻想が利用されていることが我慢ならないのだろう。何故ならば、それは後ろ向きなものだから。かくして、真はエリオの幻想を否定しようとする。

 

では、どのようにして、真はエリオの幻想を否定するのか。

 

かつて、エリオは自分が「宇宙人」であると信じ、自転車に乗ったままで空を飛ぼうとした。が、彼女は空を飛ぶことができなかった。そして、真は、エリオと一緒に自転車で空を飛ぶことを提案し、飛べなかったら、自身が「宇宙人」であることを否定することを要求する。このように、真はかつての行いを反復することでエリオの幻想を否定しようとするが、ここには「他者の幻想と付き合うときの手続き」が示されているのではないだろうか。

 

「他者の幻想と付き合うときの手続き」とは何か。それを確認するにあたって、いくつかの部分を参照したい。

 

「見えないものに触れる方法は、信念しかない。そして、その信念を表すのに必要なのは、儀式と祈り」[vi]

 

と、エリオット(a)は語る。突き詰めると、彼の主張は「見えないもの=幻想に触れるための手続き」だ。ここで、事態を分かりやすくするためにエリオの「宇宙人」を挙げよう。エリオにとっての見えないものとは「宇宙人」だ。そして、彼女は「自分は宇宙人だ」という信念を持っている。ただし、信念はそのままでは外界に反映されない。だから、信念を表すには何らかの手続きが必要とされる。それは対象が「あるということにする」というものだ。エリオにとって、それは「宇宙人」としての発言・振る舞い、ひいては自転車での飛行がそれにあたるのだろう。

 

つまるところ、現実において、見えないものを取り扱うためには、何らかの手続きを必要とするということだ。その手続きがどのようなものであるかは対象ごとに異なるだろうが、エリオの場合、「宇宙人」としての振る舞いなどがそれにあたる。いずれにしても、対象が「あるということにする」ということは共通の手続きだ。そのため、エリオットの主張は「ごっこ遊び」の原理に通じるものとも言える。

 

さて、ここまでに「幻想に触れるための手続き」を確認してきたが、これらのことは「他者の幻想と付き合うときの手続き」にも関わってくる。

 

先に確認したように、信念はそのままでは外界に反映されない。だから、信念を表すには手続きが必要とされる。そして、この手続きは「他者の幻想と付き合うときの手続き」にも関わってくる。

 

だからこそ、真はエリオの幻想は偽りだと主張するのではなく、エリオの幻想に乗っかったうえで、それを否定しようとしたのだ。つまり、幻想を否定するためには、外部にいるままにそれを否定するのではなく、幻想に触れるための手続きに則り、相手の世界観に寄り添うことが必要となるのだ。

 

真はエリオの幻想を否定した。それは彼女のそれが後ろ向きなものであり、そのことが気に食わないという理由によるものだった。そのことから、彼の行いはエゴと言える。確かに、『電波女と青春男』においては、エゴのもとにささやかな幻想が否定されるところが描かれているが、そこには「他者の幻想と付き合うための手続き」が示されている。それはある種の倫理と言えるかもしれない。

 

 

後書き

 

ということで『電波女と青春男』の雑感でした。実のところ、全巻を読み終えたあとで書こうと思っていたのですが、ここまでの所感を纏めておきたい、何らかの文章を書きたいという理由があって、これを書くに至りました。また、ここでの感想は一巻~二巻を読み終えてのものなので、全巻を読み終えた後に別の感想を書くと思います(恐らく)

 

(a)  エリオットとはエリオの父親である。現在は家を出ている。

 

 脚注

 

[i] 『電波女と青春男』wikipedia

[ii] 入間人間電波女と青春男』P149

[iii]入間人間電波女と青春男 二巻』P84~85

[iv]入間人間電波女と青春男 二巻』P121

[v] 入間人間電波女と青春男』P217

[vi] 入間人間電波女と青春男 二巻』P295

『死神の精度』対談 告知

お久しぶりです。今回の記事は告知になります。この度、『止まり木に羽根を休めて』の管理人のfee さんと『死神の精度』の対談を行いました。

全部で三回ぐらいの連載になると思います。ぜひ、ご覧ください!

 

対談につきましてはこちらをご覧ください。

 

内容(*以下のリンクは対談の記事が更新されるたびに更新されます)

 

第一回 『死神の精度』『死神と藤田』『吹雪に死神』

 

第二回 『恋愛で死神』

 

第三回 『旅路を死神』『死神対老女』

『さくら、咲きました。』感想

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1 前書き

 

ということで、先日『さくら、咲きました。』を読み終えました。率直な感想として、良くないところも見られましたが、一方で、良いところも見られました。以下では、本作品の良いところ・良くないところを列挙し、その根拠についての確認を進めていきます。また、以下の内容にはネタバレが含まれております。ご注意ください。

 

2 所感

 

それでは、本作品の良くないところ・良いところの確認に移るまえに、本作品の背景設定の確認を進めていきます。

 

まず、『さくら、咲きました。』の世界では、「トコシエ」という技術が確立されており、それが一般に普及しています。では、「トコシエ」とはどのような技術か。端的に言えば、肉体の老化を抑制し、擬似的な不老不死を獲得させるための技術を指します。しかし、あくまで「擬似的」であるため、交通事故などによって、肉体が重度の損傷を負った場合、「トコシエ」であっても、死に至ります。しかし、外的な要因がないかぎり、「トコシエ」が死ぬことはありません(自殺は例外でしょうが)

 

ⅰ 良くないところ

 

まず、良くないところの確認を進めていきます。

 

第一に、主題がぶれていること。

 

これを確認するにあたって、まず、物語の大筋をざっくりと確認します。

 

先に確認しましたように、この世界では「トコシエ」という技術が確立しています。そして、「トコシエ」は不老不死であるため、死を身近に意識することがなく、生への実感が希薄になりつつあります。そして、翼(視点人物)も属する「生活部」は、生の実感の希薄さをどうにかし、生きるための活力を見つけていこう という方針で運営されており、翼や他の人物(ヒロイン)たちもそこに所属して、楽しい日々を送っていました。しかし、ある日、隕石が地球に衝突するという知らせが飛び込んできます。そして、これをきっかけに、「トコシエ」たち(翼たちも含む)は死を意識していきます。

 

かくして、問題は、死を突き付けられるなか、それとどのように向き合っていくか ということになります。そして、いずれのルートにおいても、個人が死をストレートに受け入れることが難しい ということが描かれています。つまり、死を見つめることによって、生が意識されると言っても、死を見つめ続けることには苦痛が伴うと言えます。

 

では、どうすればよいのでしょうか?本作品では、「日常」が個人を支えるということが提示されています。つまり、死を見つめ続けることには苦痛が伴うからこそ、誰かと寄り添うことによって(これはルートごとのヒロインでもありますし、「生活部」の面々でもあります)これまでの、あるいは、新しいかたちでの「日常」を維持し、日々を楽しく生きていこう ということが示されていると言えます。

 

このように、小惑星の衝突を足掛かりにして、「トコシエ」が死とどのように向き合っていくか これこそがここまでの主題であるように思えます。

 

さて、本作品では、三つの個別ルート(都、美羽、つばめ)→チャプター「サクラ、桜」→二つの個別ルート(会長、奏)→一つの個別ルート(すみれ) という構成がとられています。そして、先の主題は三つの個別ルートで提示されています。

 

そして、一番の問題は、この構成にあると言えます。具体的に言えば、三つの個別ルートでは、隕石が地球に衝突するまでの過程が描かれており、いずれにおいても、死とどのように向き合うかが描かれています。しかし、チャプター「さくら、桜」においては、そもそも、隕石が地球に衝突するということがフェイクニュースであったことが明かされます。さらには、隕石が地球に衝突するということもなくなったので、「トコシエ」たちは死を意識することが必要なくなり、いままでの日常に帰っていきます。このように、チャプター「サクラ、桜」においては、それまでの個別ルートで問題とされてきた事柄の背景が明かされていきます。

 

また、それだけではなく、チャプター「さくら、桜」においては、作中の時間が約百年経過しているのですが、そのことを足掛かりに、不老不死の「トコシエ」は定命の非「トコシエ」とどのように付き合っていくべきか という主題が展開されています。個人的に、ここがまずいところだと思いました。何故ならば、不老不死の「トコシエ」と定命の非「トコシエ」という対立軸が設定されている以上、そこでは「トコシエ」の死は問題となりません。むしろ、死なないことが問題となります。そして、このように、「トコシエ」の死を問題としないようなかたちで主題が展開されていることによって、それまでの主題が有耶無耶にされているのです。ノベルゲームでは、複数のルートが設定されていることが多く(間違えていたら、申し訳ありません)そのため、それぞれのルートごとに主題が異なることもあると思います。しかし、ここでの主題がそれまでの主題を否定するかのように思えてしまい、自分は肯定的に受け止めることは出来ませんでした。

 

 

第二に、一部の個別ルートへの導入が強引で、キャラクターの気持ちが捻じ曲げられているように思えたこと。

 

これは会長(瀬利華)ルートの話になりますが、会長ルートは美羽ルートからの分岐という構成がとられています。そして、問題は、それまでの過程で、翼も美羽も惹かれあっていたにもかかわらず(微妙な距離ではありましたが)、突然、翼が会長に惹かれていったこと、そして、そのことへのフォローがなかったことにあります。会長が翼に好意を抱くことには、それまでの蓄積があるかもしれないので(それでも、フォローはほしいですが)、頷けますが、それまで、翼と会長には接点も少なく、少なくとも、会長に惹かれているような描写がなかっただけに、何故、そうなったかについての説明がほしかったです。個人的に、物語の進展(ここでは、会長ルートへの方向転換のため)のため、キャラクターの気持ちが捻じ曲げられているように思えてしまい、辛かったです……

 

ⅱ 良いところ

 

次に、良いところを挙げていきます。

 

第一に、システムが優れていること。

 

本作品には「シナリオプレイヤー」というシステムが導入されております。どのようなものかと言えば、以下の図にあるように、プレイヤーは動画のシークバーを動かすかのように、シナリオを任意の位置へ飛ばすことが可能となるのです。また、いくつかのポイント(例えば、セーブポイントやシーンの切れ目など)も可視化されています。シナリオを読み進めるにあたって(また、読み返すにあたっても)非常に有用であるように思えました。

 

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第二に、背景が綺麗であること

 

まず、自分は絵についての素養がなく、これらがどのような点で優れているかが分からないため、個人的な印象に基づき、話を進めていきます。

 

とりわけ、桜の描写は美しく、印象に残っています。(以下に、いくつかのサンプルを貼りました。)

 

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第三に、塗りが良いこと

 

これも同様に、自分には絵についての素養がないため、個人的な印象に基づき、話を進めていきます。

 

本作品では塗りのためか、キャラクターの肌の疾患がつるつるとしており、美羽や奏の身体の幼さがよく表れています。恐らく、刺さる方にはとても刺さるでしょう(実際、自分には刺さりました)

 

3 後書き

 

ということで、『さくら、咲きました。』の感想でした。見返してみると、結構な酷評をしていますね……

『ゆびきり婚約ロリイタ』感想

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1 前書き

 

『ゆびきり婚約ロリイタ』を読み終えました。端的に言えば、テキストが素晴らしい。ということで、今回は『ゆびきり婚約ロリイタ』の感想を纏めます。また、以下の内容にはネタバレが含まれております。ご注意ください。

 

2 所感

 

「生きてるだけで罪を重ねていくように。ひとに迷惑をかけて、もう迷惑なんてかけまいと思って、恩返しをしようと思って生きて、その過程でまた迷惑をかけて―――借りてるばかりのなかにありながら愛に生かされている」『ゆびきり婚約ロリイタ』

 

「生きているだけで罪を重ねていく」とあるが、本作品では、罪の意識についての洞察に光るところがある。以下では、本作品において、罪の意識についての問題がどのように描かれているかの確認を進める。

 

まず、啓人は、鈴佳に性的なパートナーであることを要求することに罪悪感を覚えている。何故ならば、鈴佳には成熟しているところもあるが(とりわけ、精神面については)、それでも、性的なことがらについての知識は不足している。そのため、性的な知識については、両者のあいだに非対称性が認められる。だからこそ、相手の無知につけこむかのように、性的なパートナーであることを要求することに罪悪感を覚えたのだろう。

 

そして、鈴佳に対して、啓人は一線を引いていた。つまり、罪の意識があるからこそ、そこに踏み込むことが躊躇われたからだ。しかし、それは孤独の道だ。生きることによって、罪が累積していき、それがあることで、相手に踏み込むことが躊躇われるならば、孤独であるほかに道はないのだろうか?

 

そんなことはない。罪の意識があったとしても、孤独を解消し、お互いに寄り添うためにはどうすればいいか が示されている。

 

それは「お互いに罪の意識を抱えているが、それを理由に相手に踏み込まないのではなく、それぞれの罪を赦しあうことによって、寄り添うことができる」というものだ。

 

かくして、啓人・鈴佳の問題は「擬似的に」解消される。何故ならば、物語の終盤において、鈴佳は啓人のこどもを身ごもるが、彼女は学生であり、啓人は会社員(恐らく)だ。そのため、これまでの生活を維持しつつ、子ども育てていかなければならない という問題が見え隠れする。彼らは「お互いが赦しあうことによって」罪の意識についての問題を解消したが、あくまで、それは問題を擬似的に解消しただけであって、罪の意識を解消し、関係が進展したときに付随してくるものについては考慮されていない。しかし、彼らにはよるべがなく、「申し訳ないと思い続けないと生きられない生」があった。だからこそ、彼らの行いは軽率なものであったかもしれないが、それだけで、否定されうるものではないかもしれない。

 

3 補遺

 

鈴佳と啓人は「ずっと一緒にいようっていう約束は、いつか離ればなれになる約束」という問題を解消するため、二人のこどもを作ることを選択する。何故ならば、同じとき、二人が死ぬことは不可能であっても、子どものなかに生き続け(このことの背景には、子は親に対して、生を受けたということから、比類ないほどの借りがあり、そのため、子に借りへの意識(罪の意識)がある以上、そこに自分達も生き続けるという論理があるように思える)子どもが死ぬときに同じ死を迎えることはできるからだ。鈴佳と啓人はそれぞれの罪の意識を赦しあうことによって、寄り添った。そのため、そこには対称性がある。だが、子どもはどうだろうか?比類ないほどの借りを負わされるにもかかわらず、子どもはそれを了承することはできない(何故ならば、生まれていないから)そのため、そこには非対称がある。素朴な疑問として、比類ないほどの借りを一方的に背負わされることをどのように受け止ればいいかが分からなかった*

 

*『ギャルゲヱの世界よ、ようこそ!』において、類似の問題が取り上げられている。また、再読することになるかもしれない。あるいは、他の作品に触れるか。

 

4 後書き

 

前書きでも言いましたが、とにかく、テキストが素晴らしい。他の作品も気になるので、後日、触れることになるかもしれません。

『神聖にして侵すべからず』雑感  印象的・好きなシーン集

1 前書き

神聖にして侵すべからず』は素晴らしい。ということで、先日、『神聖にして侵すべからず』を読み終えて、感想を投稿いたしましたが、未だ、本作品への熱が冷めません。ですので、今回は『神聖にして侵すべからず』で印象的・好きなシーンを列挙し、つらつらと語っていきたいと思います。

 

2 『神聖にして侵すべからず』印象的・好きなシーン

 

ⅰ共通ルート

 

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何が王であることを担保するのか?当時、このシーンは印象に残っていませんでしたが、後の展開を踏まえたうえで思い返してみると、示唆に富んでいます。

通常、王であることを担保するものは王権下の諸制度なのでしょうが、そもそも、ファルケンスレーベン王国は正式に国家として認められたものではなく、あくまで、ご当地の名物のようなものです。

では、諸制度があてにならないならば、何がそれを担保するのか。それは人々の心(信仰)なのでしょう。

 

*補足

このあたりの話は先日の記事で取り上げたことなので、詳細についてはそちらを参照ください。

 

 

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「友情は見返りを求めない」

屋上にて、この台詞が発されているところから、某作品が意識されているのだろうなぁ と思いました。ふと、懐かしさに包まれました。

 

 

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「こうして僕らは王国になった」

素晴らしい!『神聖にして侵すべからず』では、随所にこのようなモノローグが差し込まれるのですが、情動を揺さぶってくるようなものが多く、悶えてしまいます。この後のシーンにて、「こうして僕らは友達になった」という一文が差し込まれるところも良い。定型文の反復は、ここぞという場面でなされると効いてくるものだなぁと再認しました。

 

 

ⅱ 希ルート

 

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「君のことが好きと言えれば、多分、すぐにカタがつくんだろうけど、それですませていいような気もしないんだ。」

 

完全にやられてしまいましたね…… お互いに手探りで、それでも、一歩ずつ、互いの気持ちを確かなものにしていくというところが素晴らしい。

 

 

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カイコからクワゴ

 

希は、自身のことをカイコにたとえ、自活するための糸を出せないことがまさに自身の無力さを表していると捉えます。しかし、それに対して、隼人はカイコではなくクワゴになればいい と言います。呼称の変更はありきたりなものですが(言葉は悪いかもしれませんが)、それを言葉を介してのイメージの変革に結びつけるところが面白い。

 

 

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「恋人になったということは、恋人でいることの始まりなんだなって」

 

具体的に何がと問われると難しいですが、良いですね。当たり前のことを言っているのですが、改めて、それが口に出されることで殊更に意識される。先の場面(好意の確認)もそうですが、隼人は当たり前のことを捉え直すことへの資質に長けているように思えますね。時折、彼が詩的な言葉を口にすることもこれによるのだろうかと思ったり

 

 

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初々しすぎて、悶絶しまいますね……本当に、手探りながらも触れ合っていく姿が眩しすぎて、完全にやられてしまいました。あと、『神聖にして侵すべからず』は初回のHシーンが良いですね。手探りながらも触れ合い、睦みあうところがやらしい。

 

 

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「家臣の望みを叶えてやるのも、主君の度量というものだ」

 

この場面もずるいですね……他のルートにおいても、瑠波が隼人に思いを寄せていることは明らかで、にもかかわらず、瑠波は隼人が王国を出ることをよしとする。当初、二人から王国は始まったにもかかわらず、それを自分だけで背負おうとし、隼人を送るすがたはあまりに凛々しい。

 

ⅲ 操ルート

 

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可愛い……美味しいものを食べて、幸せそうにしている姿があまりに可愛い。これに限らず、操はあまりにひたむきで、そのために眩しくもあります。

 

 

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「気が向かなくなれば、我も我が王国も弊履の如く捨てるであろう」

 

この台詞はあまりに重いですね。個人的に、瑠波が隼人に依存しているように見えて、隼人こそが瑠波に依存しているように思えます。そして、瑠波は隼人のそのようなところを見抜いており(恐らく)、だからこそ、多くのルートで、隼人を王国から解放しようとするのだろう。しかし、自分はこのような人物に弱いところがあるので(具体的には、相手に好意を寄せつつも、その相手が好きだからこそ、相手の背中を押してしまうような人物*)、やられてしまいました。

 

*補足

きっと、澄みわたる朝色よりも、』の夢乃蘭もそのような人物だったので、本当に、自分はそのような人物に弱いのでしょう……

 

 

 

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個人的に、この場面はかなり好ましいです。何が良いかと言えば、「わかんないところも色々あるけど、でも、操は僕をわかってくれてる気がする」という言葉が出てくるところに二人の関係性が集約されているところです。つまり、具体的に何を考えているかが分からなくとも、それでも、相手が自分のことを分かってくれているだろうという推測はかなりの信頼がなくては成り立たないように思えるため、この台詞は幼馴染としての二人の関係を端的に表しているように思えます。このような、ちょっとした台詞で二人の関係を示してくるところが素晴らしい。

 

 

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あまりに可愛い……

 

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(あまりの良さに言葉を失う)

正直なところ、操も好ましいのですが、瑠波があまりに好ましすぎて、そちらに目がいきすぎたところは否めないです。

 

ⅳ 澪里ルート

 

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どうやら、自分はこの種のシチュエーションと構図を好ましいと思うようです。『しろくまベルスターズ♪』『そして明日の世界より』もそうですが、恋人同士が電話をかけあうというシチュエーションがロマンティックなものに思えてしまうところがあり……

 

 

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澪里も気高い人物だと思います(瑠波とは方向性が違うような気もしますが)

 

 

ⅴ 瑠波ルート

 

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このシーンでは、隼人が瑠波に依存していることが顕著に表れているように思えます。他のルートにおいて、隼人は相手がどのような人物であるかによって、自分が何になるかを決めていたからこそ、このようなところが見えにくくなっていましたが、瑠波のルートでは、瑠波との関係が解消されつつあることで、隼人が何であるか・何になるかが宙づりになっています。何故ならば、相手によって、何になるかを決めていたからこそ、その相手がいなくなってしまうと、指針が失われてしまうからです。

あと、他のルートでは留保されてきた事柄がかえってくるという展開は『穢翼のユースティア』のティアルートを思い起こさせますね。(ちなみに、『穢翼のユースティア』も大好きな作品の一つです)

 

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「人間は自立しない生き物だと言えます」

 

非常に示唆に富んでいます。他のルートにおいて、それぞれの人物(ヒロイン)たちは、他者との交流を通して、自身を変化させてきました。その意味では、彼女たちは自立していないとも言えます。しかし、隼人こそがこのことを顕著に表しているように思えます。先に確認しましたように、隼人は瑠波に依存しがちであるため、ヒロインたちが隼人に依存しているように見えて、その実、隼人こそがヒロインに依存しているという構図があると思います。

 

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可愛い!!!!!!!!!!

 

 

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素晴らしい。別の記事でも言及しましたが、行為の後、同居人にそのことがばれてしまい、気まずさに包まれてしまうというシチュエーションが本当に好ましい。何故かは分かりませんが

 

 

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王国は呪いにもなりうるということですね。王国は弘実や芳乃を救ったが、一方で、光雄(瑠波の父親)には呪いをかけた。その意味で、王国は両義的なものなのだと思う。

 

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「瑠波は王国を忘れ、僕は瑠波以外の全てを忘れ、ただの男と女になった。それが全てだった。」

 

神聖にして侵すべからず』では、良いテキストがスッと差し込まれるので、本当に油断ならないですね(良い意味で)まさか、Hシーンで、このようなテキストを目にするとは思いませんでした。

 

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改めて、スクショを見返していると、このあたりのアナロジーは完璧ですね。

 

 

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 一人の力では全てのものを救うことには限界がある。が、「王国」という共同体ならば、それは可能となるかもしれない。実際、王国の人々の力によって、会長は救われることになるわけですし……これについての解答も用意されているあたり、神が細部に宿っているというほかにないですね……素晴らしすぎる。

 

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見返りを必要としない、救いの手は呪いになりうるという話。このあたりの話は『サクラノ詩』『ZYPRESSEN』でされていましたね。話はそれますが、あの章では草薙直哉の献身の側面が語られていて、個人的に好きですね(他にも、好きな理由はありますが)

 

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「僕らは無力で小さく、墓は巨大で、世界はもっと巨大だった。」

 

これも良い。

 

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感無量。『しろくまベルスターズ♪』もそうでしたが、それが「子どもの手すさび」であっても、そこには意義があるということがありありと描かれていて、完全にやられてしまいました。このように、物語の力を肯定してくれる話が好きなのだと思います。

 

 

3 後書き

 

ということで、『神聖にして侵すべからず』の印象的・好きなシーンの総括はこれで終わりとなります。書いていて、非常に楽しかったですし、書くにあたって、スクショを見返したことで新たな発見もありました。

 

「幸福のリレー」から「王国」へ 『神聖にして侵すべからず』を読む。

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1.はじめに

 

しろくまベルスターズ♪』は、株式会社ウィルのブランド・PULLTOPより、2009年12月11日に発売された18禁恋愛アドベンチャーゲームである。[i]

 

本作品では、「しろくま町」を舞台に、クリスマスイブにプレゼントを配るため、サンタとトナカイたちが奮闘する姿が描かれている。詳細なあらすじについてはこちらを参照いただきたい。

 

さて、『しろくまベルスターズ♪』においては、幸福についてのモデルが描かれている。それはどのようなものか。まず、サンタ・トナカイたちはプレゼントを贈る。しかし、そこに、プレゼントに対しての返礼はなく、そのため、互酬性の論理が働いていないと言えるだろう。では、プレゼントが渡されて、そこで終わりなのだろうか?そうではない。プレゼントを贈られたものは、そのことで幸福になる。しかし、幸福のきっかけをくれたものへの返礼の機会は残されていない。満たされたものがそのままに残るのだ。そのため、彼らには幸福が溢れてくる。だからこそ、それを別の人々に分けてあげるのである。そのようにして、幸福は繋がっていく。以上が、『しろくまベルスターズ♪』の幸福のモデルであり、ここでは、それを「幸福のリレー」と呼称する。

 

また、「幸福のリレー」については、当ブログのこちらの記事にも記載されているため、そちらを参照いただきたい。

 

しかし、ここで、一つの疑問がある。本作品では「幸福のリレー」というモデルが提示されたが、そこに読み手が介在するところは残されているのだろうか?

 

この疑問は、個人的な経験に裏打ちされたものである。本作品を読み終えて、私は感慨に包まれた。彼らのひたむきな姿、幸福な世界にやられてしまったのだ。そして、「しろくま町」の人々が背中を押されたように、私も背中を押されたからこそ、ここから、何かを始めていこうという気持ちにさせられた。

 

しかし、考えてみると、幸福のリレーに読み手(私)が介在するところは残されていないように思われる。何故ならば、贈り物を通して、「しろくま町」の人々は背中を押されたが、私は具体的な物を受け取っていないのである。そのため、作中の論理に従うならば、私にはそれを始めるためのバトンが渡されていないと言える。何かを始められると思っていたものの、その実、手のなかは空っぽだったのである。

 

本当に、幸福のリレーを始めるための糸口はないのか?ここで、話は『神聖にして侵すべからず』に移る。

 

神聖にして侵すべからず』は株式会社ウィルプラスのブランド・PULLTOPより2011年10月28日に発売されたアダルトゲームソフトである[ii]

 

神聖にして侵すべからず』では、朝妻ユタカ 氏 がディレクターを、丸谷秀人 氏 がシナリオの一部を手掛けている。ここで、強引ではあるが、『しろくまベルスターズ♪』を補助線に、『神聖にして侵すべからず』を読み解いていきたい。

 

何故ならば、『神聖にして侵すべからず』では、作中の論理(共同体)に読み手がどのように参与していくかの糸口が示されているからである。

 

以下では、第一に、「王国」とは何かを確認する。第二に、「王国」とはどのように広がるのかを確認する。第三に、「王国」が広がることに意義があるのかを確認する。最後に、実践としての「王国」とは何かを確認し、これを結びとしたい。

 

 

2.「王国」とは何か

 

まず、「王国」とは何かの確認を進めていく。「王国」の正式な名称は、ファルケンスレーベン王国である。曰く、「夢に現れた猫のお告げで戦に大功を立てたご先祖が、カール大帝にひきたてられて、霊験あらたかな猫と苗字の鷹を紋章にしたのが始まり[iii]」とされている。そして、「瑠波のひいひいお爺ちゃんが欧州から猫庭の地に移り住んできてから瑠波で五代目。[iv]」になる。また、猫庭では、「王国」は名物とされており、臣民の数は少ないものの、猫庭の市民たちに親しまれている。しかし、「王国」という名前を冠しているものの、正式な国家として認められているわけではない。このことについては、あるエピソードが象徴しているので、そちらを参照したい。

 

瑠波ルートにおいて、瑠波は、隼人を「王国」に縛り付けることをよしとせず、そのために、王国を解体することを決意する。そして、「王国」を解体するためには正式な文書が必要であり、それにサインをし、役所に提出すれば、「王国」についての諸権利は譲渡されるはずだったのだが、実際は、その手続きは上手くはいかなかった。何故ならば、そもそも、「王国」は正式な国家として認められているわけではないため、正式な手続きを踏み、それを解体するということはかなわないのである。このことから、「王国」は正規の制度のもとに保障されているのではなく、隼人、瑠波、芳乃 の臣民、ひいては、猫庭の市民たちの認識のもとに支えられていると言える。「王国」とは人々がそこにあると考えるからこそ、成り立つものであり、言うなれば、盛大な「ごっこ遊び」なのである。

 

 

3.「王国」とはどのように広がるのか

 

ここでは、「王国」とはどのように広がるかの確認を進めていく。『しろくまベルスターズ♪』で言うなれば、「幸福のリレー」がどのように成り立つかの確認であると言えるだろう。

 

さて、先に確認したように、「王国」とは正規の制度のもとに認められたものではない。そのため、「王国」が広がるとしても、その方法も正規の制度のもとでは達成されない。では、どのようにして、それは達成されるのだろうか?

 

その糸口は、「王国」とは、盛大な「ごっこ遊び」のもとに支えられている というところにある。

 

ここまでに確認してきたように、「王国」は正規の制度のもとには支えられていない。にもかかわらず、「王国」は存続している。何故か? それは、人々が「王国」はそこにあると考えていることによるものである。このことから、「王国」とはそれを支えるための具体的なもの(制度など)を持たないからこそ、人々の心で支えられている と言える。

 

ここには、具体的なかたちを持たないからこそ、遠くに広がりうる という逆説が確認される。何故ならば、「王国」を媒介するものは、複雑な手続きなどではなく、それがあると信じる心であるからだ。言うなれば、心があれば、それはどこまでも届くのかもしれない。

 

かくして、「王国」とはどのように広がるのか についての解答は確認された。それは人々の心(信仰)を媒介に広がるのである。このように、「王国」は具体的なかたちを持たないからこそ、越境性を持ちうるという逆説が確認される。後述するが、このことは、読み手(私)がそれにどのように参与するかに関わってくる。

 

4.「王国」が広がることに意義はあるのか

 

先の章では、「王国」はどのように広がるのか の確認を終えた。では、そもそも、「王国」が広がることに意義はあるのだろうか?第一章で確認したように、「王国」とは盛大な「ごっこ遊び」のもとに支えられたものである。そのようなものが広がることに意義はあるのか。以下では、そのことの確認を進めていく。

 

さて、「王国」が広がることに意義はあるのかを確認するにあたって、いくつかのエピソードを確認したい。これらのエピソードはそのことを確認するための一助となるだろう。

 

まず、辻賀崎弘実は晴華瑠波の親友である。そして、幼少期、彼女はいじめにあっていた。が、彼女はいじめに屈することをよしとせず、登校を続けていた。そして、ある日のこと。弘実がいじめられているなか、瑠波が助けに入る。そして、瑠波は彼女の家庭にも問題があることを知り、「王国」にくることを提案する。かくして、弘実は「王国」の国民として迎え入れられることになった。そして、現在の彼女は、当時、瑠波が手を差し伸べてくれたことで、救われた と述べている。

 

次に、風峰涼香は学生会長だ。自由奔放な性格をしており、度々、問題を起こそうとするためか、それを煙たがる人もいる。ある日のこと、瑠波は、涼香の父親の工場の経営が立ち行かなくなっていることを知る。瑠波はそのことを看過できず、援助を申し出る。しかし、会長はそれを拒む。曰く、援助を受け取るものにとって、それが見返りを必要としないということは重いからだ。

 

後日、瑠波と隼人は「王国」を解体することを告げるため、臨時の集会を開くことを決める。そして、それを開催するにあたって、涼香の父親にいくつかのオブジェクトの作成を依頼する。直接的に援助をすることは不可能であっても、依頼というかたちでならば、相手も受け入れてくれるかもしれないからだ。涼香の父親もそれを快諾する。

 

 そして、臨時の集会の当日、製作されたオブジェクトが人々の目に留まる。人々はオブジェクトの美しさに目を奪われ、それを製作したものが誰であるかを尋ねる。無論、それを製作したのは涼香の父親だ。そして、人々は涼香たちがどのような境遇にあるのかを知り、彼女たちを援助することを決める。かくして、涼香たちの問題は解決されたのだった。

 

弘実のエピソードは、「王国」が広がることに意義はあるのか という問題に対して、示唆的だ。あくまで、「王国」とは盛大な「ごっこ遊び」のもとに支えられたものである。そこは変わらない。しかし、「ごっこ遊び」であったとしても、それが誰かを救うということはありえる。「王国」があることによって、誰かが救われるのであれば、それは「王国」があること、広がることの意義となりうるのではないだろうか?

 

そして、涼香のエピソードは、「王国」が広がることによって、どのような意義があるかに具体的な輪郭を与えている。

 

個人(瑠波)が全ての人を救うことは不可能だ。何故ならば、そこでの救いとは、一方の負担をもう一方に移し替えただけであるからだ。そのため、誰かを救うたび、当人の負担は増え続ける。そして、あらゆる負担を背負うことは不可能なことである。だからこそ、個人(瑠波)が全ての人を救うことは不可能だ。

 

だが、共同体ならば、それが可能となるかもしれない。確かに、個人の力では全ての人を救うことはできないだろう。しかし、涼香のエピソードに認められるように、「王国」によって、涼香たちは救われている。個人があらゆる負担を背負うことはできない。けれども、その負担を分散することで、誰かを救うことはできるかもしれない。このことは、「王国」が広がることの意義に具体的な輪郭を与えている。

 

5.実践としての「王国」

 

ここまでに、「王国」とは何か。「王国」はどのように広がるのか。そもそも、「王国」が広がることに意義はあるのかを確認してきた。最後に、読み手(私)は「王国」にどのように参与するかを確認し、これを結びとしたい。

 

「王国」は具体的なかたちを持たない。だからこそ、そこには越境性が宿るという逆説がある。このことは、読み手(私)が「王国」にどのように参与するか に関わってくる。

「王国」を支えるものはそれがあると信じる心(信仰)であることは確認した。そして、「王国」があると信じることは読み手(私)にも可能なことである。ここにおいて、「幸福のリレー」と「王国」の相違点が浮き彫りとなる。「幸福のリレー」においては、読み手(私)は具体的なものを受け取っていないことから、そこに参与の機会は開かれていなかった。このことから、ここでの関係は非対称なものであると言える。一方、「王国」においては、信じる心(信仰)が鍵となる。そして、信じることは作中の人物の特権ではない。読み手もそれを信じることは可能なのである。このことから、ここでの関係は対称的なものであると言える。

 

以上のことから、「王国」はそれ自体で閉じているのではなく、外部に開かれている と言える。具体的なかたちを持たないからこそ、それは越境性を持ち、作品の枠組みを越えて、読み手(私)のまえに開かれているのだ。

 

決して、「王国」がもたらすものは幸福だけではないかもしれない。瑠波の父親が「王国」に殉じたように、それはある種の呪いとなるかもしれない。しかし、弘実が救われたように、「王国」が誰かを救うこともある。その意味で、「王国」は無力ではない。少なくとも、それは開かれており、実践としての「王国」が幸福への端緒となりうるかもしれないのだから。

 

 

 

後書き

 

ということで、今回は『神聖にして侵すべからず』の「王国」に焦点を当てて、書いてみました。いつもとは文体も変えてみましたが、不慣れなところがあるため、見苦しいところも多々あると思います。また、少々(かなり?)ポエミーなところもあり、見返すといくらかの気恥ずかしさを覚えるかもしれません。ただ、自分が、それだけの熱量を『神聖にして侵すべからず』から受け取ったということは確かです。今回の主題は『そして明日の世界より』をプレイしてから、考えていたことでもあります。現実に対し、フィクションはどのような意義を持つのか。そのような問題意識にもとづき、今回の内容を書き進めてきました。ですが、『しろくまベルスターズ♪』という補助線を強引に引いてしまったところ 現実に「王国」を再現するとして(荒唐無稽な話ですが、本論の議論を敷衍するとそのような話になりそうなので。また、本作品において、荒唐無稽なものが誰かを救うということが示されていたということもあり)それはどのような共同体となりうるのか(少なくとも、作中のそれとは異なるかたちになる)を示せていない 「王国」の問題点への言及が不足している などの問題点があり、このあたりは今後の課題としていきたいところです。

 

 

 

[i]しろくまベルスターズ♪』-Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%82%8D%E3%81%8F%E3%81%BE%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA%E2%99%AA

[ii]神聖にして侵すべからず』-Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E4%BE%B5%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%9A

[iii]神聖にして侵すべからず』第一話「世界で一番小さな国」

[iv]神聖にして侵すべからず』第一話「世界で一番小さな国」