世界の自明性を疑うということ 『ギャングスタ・アルカディア~ヒッパルコスの天使~』を読む

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以下の内容にはネタバレが含まれております。ご注意ください。

 

1.概要・あらすじ

 

ギャングスタアルカディアヒッパルコスの天使~』は、WHITESOFTより、2014年6月27日に発売された、18禁恋愛アドベンチャーゲームである。

 

本作品では、虹かけ台を舞台に物語が展開されていく。ある夏、ギャング部の一員、シャールカ・グロスマノヴァは家庭の事情で時守家にホームステイすることになる。時守家に滞在しても、シャールカはマイペースであったが、叶たちはシャールカとの生活に徐々に慣れていく。そのようななか、聖天儀学園に新たな講師が赴任することになる。名前はアマネ。彼女(天使に性別という概念はあるのだろうか?本稿では、便宜上アマネへの代名詞を彼女とする)は人間ではなく、天使であった。天使は人間とは異なる存在であり、摂理に干渉することが可能である。そのことから、彼女は「摂理学」の講義を受け持つことになる。「摂理学」の講義を通して、アマネはこの世界の成り立ちを説いていく。それは、ループとは何かに始まり、それらが世界のなかでどのような意味を持つかだ。人間とは異なる存在ではあるが、アマネは聖天儀学園に馴染んでいった。しかし、一つの問題が発生する。それはA型ディスサイクリアウイルスの流行だ。そして、ギャング部の一員、古雅ゆとりのメイド、眞鍋梨都子がそれに感染する。シャールカたちは状況を解明すべく、ディスサイクリアウイルスがどのようなものであるかを調べ始める。そのとき、アマネが衝撃的な事実を告白する。それは、A型ディスサイクリアウイルスの感染を引き起こしたのは自分であると。告白はそれだけに留まらない。A型ディスサイクリアウイルスを感染させたことの真の目的は、この世界にとってのループを当たり前のものではなくすること。さもなければ、ループが当たり前になりすぎることによって、人類の人格の消失という現象が発生するというのだ。そして、その現象を止めるためには、A型ディスサイクリアウイルスの感染だけではなく、叶の力が必要だと主張する。叶は、アマネの意志に従い、彼女に付いていこうとするが、ギャング部のメンバーたちはそれらを許さない。かくして、ギャング部とアマネは対立することになる……

 

さて、以上が大まかなあらすじとなる。が、これだけでは未読のかたには判然としない部分が多すぎるだろう。そのため、以下では、本作品の背景設定についての説明を進めていく。

 

2.背景設定

 

まず、天使とは何か。この世界において、人間と天使たちは共生関係にある。例えば、この世界には「天気預報」というものがある。天使は、可能世界に号令をかけることによって(本作品では量子コンピュータのようなものと説明されている)、高度な処理を行い、未来を予測することすらも可能とする。そのため、その日の天気を予測することは容易なものだ。このように、天使は人間の社会との関わりを持っている。さて、可能世界に号令をかけることが可能であるように、天使の在り方は人間とは異なるものだ。例えば、本作品のアマネは受肉することによって肉体を有しているが、通常の天使たちは肉体を有しておらず、精神的な存在である。他にも、天使たちは群れとして生きており、個としての意識が希薄である。ここで重要なことは、天使の在り方は人間とは根本的に異なると言うことだ。

 

次に、ループとは何か。この世界の人類は、進化の過程でループという形質を獲得した。そして、ループには二つの種類がある。一つは固有ループと呼ばれるものだ。固有ループはループに入るときを制御できない。あくまで、不定期に訪れるものだ。そして、固有ループが始まると、当人(ループしているもの)はループを続ける。そして、精神的高揚を覚えるとループを脱する。また、ループには周期というものが設定されている。これは生まれつきのもので、各々でループ周期は異なる。例えば、数時間のものもいれば、一日のものもいたり、はてには一ヶ月にわたるものもいる。そして、重要なことは、ループが入れ子構造をとるということだ。どういうことか。例を挙げよう。

 

Aという人物がいると仮定する。Aのループ周期は1時間だ。Aは固有ループに入り、二周目にて、精神的高揚を覚えたことでループを脱する。ループにおいて、基底の世界に反映されるのは最後の周の出来事だけである。そのため、一周目の出来事はAの記憶にのみ残る。

 

さて、この場合、Aの二周目の出来事が基底の世界に反映されることになる。だが、ここでBという人物がいると仮定してみよう。Bのループ周期は長大で、一週間にも及ぶ。そして、Aがループに入った時点でBも固有ループに入っていたとしよう。

 

この場合、Aのループで確定した出来事はBのループの周回に反映される。そして、それが反映されたとして、その周で固有ループを脱しなかった場合、Bは次の周に移行することになる。すると、Aのループで確定した出来事はBのループのなかでの出来事の一つとなってしまう。先述したように、基底の世界に反映されるのは最後の周の出来事だけであり、その他の出来事はループしているものの記憶にのみ残る。かくして、Aのループで確定した出来事はBのループのなかに包摂される。

 

これが、ループの入れ子構造である。そして、ループが入れ子構造をとる以上、ループ周期が長大なものは、この世界での強者である。何故ならば、他者のループを包摂できるということは、そこでの事実を上書きできることを意味しているからだ。

 

以上が、固有ループについての説明となる。

 

次に、共有ループとは何かについての説明を進めていく。

 

固有ループはループに入るときを制御できないが、共有ループはループに入るときを制御できる。だが、共有ループにはループに入るための条件がある。それは、成員のループ周期が近似的に素数比をとることである。また、共有ループの場合もループを脱するための条件は同様である。

 

以上が、本作品のループについての大まかな説明となる。次に、ディスサイクリアウイルスとは何かについての説明を進めていく。

 

端的に言えば、ディスサイクリアウイルスとはループ不全を引き起こすものである。なかでも、A型のディスサイクリアウイルスは不可逆のループ不全を引き起こす。つまり、そうなってしまった場合、A型ディスサイクリアウイルスの感染者はループすることができなくなってしまう。アマネがA型ディスサイクリアウイルスを感染させたことの理由もここにある。不可逆のループ不全を引き起こすことによって、ループできないものを増やし、ループを当たり前のものでなくしようとしたのだ。

 

3.問題提起「叶の態度は妥当なものなのか」

 

さて、ここまでに本作品のあらすじと背景設定についての大まかな確認を進めてきた。あらすじで確認したように、本作品の大筋はギャング部とアマネの対立にある。問題の焦点は、アマネが叶を必要としていること。また、アマネは人類の意志と関わりなしに人類の救済をなそうとしていること。当事者の意志とは関わりなしに、他者の運命に介在すること。ここには重要な論点が含まれるようにも思える。だが、本稿ではそこは深堀りしない。着目したいところは、叶の態度が天使との対立を解消したということだ。では、叶はどのような態度で天使との対立を解消したのか。以下の引用を見てもらいたい。

 

いや、敵とか味方とかそんなことじゃない。今大事なのは、アマネ自身を問題にすることなんじゃないのか?アマネ自身を問題にしないやり方は、この場で必要ないことなんじゃないのか。今まで、俺たちは人間のことを考えていた。俺たちは人間なんだから、あたりまえだ。だけど、それでも、俺たちはアマネと相対している。俺はアマネと相対している。俺はアマネと話している。だとしたら、アマネのことを考えないといけないはずだ。

 

そして、叶はこう続ける。

 

「悪なら、苦しむ必要はない。」「滅ぼすなら滅ぼせ、救うなら救え、心の赴くままに」「自分が何だったか、思い出せ」そして一呼吸おいてから―――「『邪悪であれ』」

 

叶は「天使が人類に干渉するかどうか」を問題とするのではなく、アマネのアイデンティティが分裂していることを問題とした。アマネは人類を救済しようとする一方、人類(もっと言えば、ギャング部)と親しくありたいとも考えていた。それ自体は両立可能なものであるが、この場合、その手段が拙かった。人類を救済するうえで、ディスサイクリアウイルスを感染させることは必要不可欠なことで、そして、そのような行動をとることはギャング部と敵対的な関係になることを意味する。だからこそ、アマネは二つの願望のあいだで板挟みになり、そのジレンマを解消するため、アマネの人格は二つに分離してしまった。そして、叶はそのことを問題とする。叶は天使のアイデンティティを「悪=人がそうしたいと思うのとは違うやり方で、人がそうなりたいと思うことを実現すること。たとえ、間違っていても」と定義する。そして、悪であるならば、それが間違いであるとしても、そのことに煩悶することはない。だからこそ、アマネは煩悶する必要などなく、あるがまま(悪)であってよいのだと指摘する。

 

そして、この指摘がアマネの心(と言っていいのだろうか?)を揺るがした。相手が何者であり、どのようなことを大切にしているかを考えたうえで、それを大事にすること。それこそが、アマネの心を揺るがしたのだと考えられる。

 

さて、ここで考えたいことは、叶の態度こそが天使とギャング部の対立を解消したが、このような態度は他の知性体との対立を解消するうえで適当なものであると言えるのだろうかということだ。先に確認したように、本作品の大筋はギャング部とアマネの対立にある。そして、その対立の根底にあるものは、人類と天使とのギャップだ。天使と人間は在り方が根本的に異なる。天使は可能世界に号令をかけることで、未来の予測を可能とするが、人類にそのようなことはできない(技術でそれを再現することはできるかもしれないが)だからこそ、天使は人類の救済が必要であると主張するが、人間にはその視点を共有することができないのだ。このように、在り方が根本的に異なるからこそ、対立している。そして、本作品の大筋を、ギャング部とアマネの対立と読むならば、本作品の主題は、存在の在り方が異なるものたちの主張が対立したとき、それはどのように調停されるべきか、そもそも、そのようなことは可能なのかという点にあると言えるのではないだろうか。

 

このように、本作品に「異なる知性とのコミュニケーション」という補助線を引くと、叶のそれは一つの解答に思える。だが、本稿では、叶のそれは妥当なものであるのかを問題提起としたうえで、「異なる知性とのコミュニケーション」において、要請されているものは何かを確認していきたい。

 

4.概念の自明性を疑うということ

 

まず、確認しておきたいことは、叶は天使のアイデンティティを尊重するという態度をとったが、アイデンティティという概念は他の知性にも適用されるのかという問題だ。本作品において、アマネは受肉していた。だからこそ、精神体のときと比較すると、個としての在り方が強化されていたと言う。もしかすると、そのことによって、叶の想いは通じたのかもしれない。知性によって、アイデンティティという概念の在り方は異なるかもしれない。だからこそ、それを他の知性とのコミュニケーションの問題に敷衍することには危うさが伴うのではないだろうか?

 

だが、そもそも、アイデンティティという概念の普遍性を考えることの意味はあるのだろうか?この問題に対して、アマネは示唆的な考えを示している。

 

それは、ループのない世界もあるかもしれないということだ。私たちの世界にはループというものは存在しない。それは当たり前のことだ。だが、彼らにとってはそうではなく、ループというものは当たり前のものだ。だからこそ、ループのない世界というものを想像することには何らかのきっかけが必要となる。それはアマネの言葉だ。アマネの言葉をきっかけにして、彼らは自身の世界の法則が自明なものではないことに気付かされた。つまり、ループのない世界への想像を足掛かりに、自分たちの世界を相対化したのだ。

 

このことが、アイデンティティという概念の普遍性を考えることの意味に繋がる。ループのない(ある)世界というものが自明でないように、アイデンティティという概念も自明ではないかもしれない。何故なら、世界・知性の在り方は多様なのだから。そして、世界・知性の在り方が多様である以上、杓子定規な態度を当てはめることには困難が伴うのではないだろうか。

 

 

では、どのような態度が求められているのだろうか。その鍵は世界・知性の在り方は多様であるということにある。つまり、杓子定規な態度を当てはめるのではなく、世界・知性の在り方は多様であるという認識すること。そして、「自分たちの概念の自明性を疑い続け、そこに留まること」。確かに、アイデンティティという概念は普遍的なものではないかもしれない。だからこそ、「個」を重視するということは、まずは相手にとっての「個」という概念がどのようなものであるかを確認する作業が伴うはずだ。そして、それこそが相手を尊重するということではないのだろうか。

 

5.私たちの世界の問題

 

さて、ここでの問題は、彼らの世界の問題には留まらない。私たちの世界にも、この問題は妥当するように思える。何故ならば、アマネの言葉を通して、少なくとも、私は私たちの世界が自明なものではないことに気付かされたからだ。彼らにとって、ループのある世界というものが自明なものではなくなったように、私にとっても、ループのない世界というものは自明なものではなくなった。だからこそ、「自分たちの概念の自明性を疑い続け、そこに留まること」は私たちの世界にも要請されているように思える。

 

6.後書き

ということで、『ギャングスタアルカディアヒッパルコスの天使~』の感想でした。個人的に、認知の限界の問題を取り上げておきながら、「認知の限界」を認知することは可能なのかという問題を留保していたので、そこは今後の課題としたいところです。

『ハーレム双子ロリータ』対談 告知

今回の記事は告知になります。この度、『止まり木に羽根を休めて』の管理人のfee さんと『ハーレム双子ロリータ』の対談を行いました。

全部で三回ぐらいの連載になると思います。ぜひ、ご覧ください!

 

対談につきましてはこちらをご覧ください。

 

内容(*以下のリンクは対談の記事が更新されるたびに更新されます)

 

第0回

前編

後編

『サクラの空と、君のコト』感想

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1 前書き

 

ということで、ひよこソフトの『サクラの空と、君のコト』を読み終えました。ルートごとの出来の違いが顕著だということは知っていたのですが、それでも、これほどに違いがあるとは思わず、読み進めているときに面食らいました。なかでも、千春ルートの内容はあまりに薄っぺらく、言及したいこともないため、ここでは省かせていただきます。また、佳奈多ルートにも不満があり、本稿では不満がぶちまけられています。不快に思われるかたもいらっしゃるかもしれませんので、ご注意ください。また、以下の内容にはネタバレが含まれております。

 

ⅰ 佳奈多ルート

 

さて、いきなりで申し訳ないですが、佳奈多ルートへの不満をぶちまけるところから始めたいと思います。まず、佳奈多ルートの出来は千春ルートと比較すると、相対的にマシです(あくまで、「相対的にマシ」というだけで、酷いことに変わりはない)では、何が駄目だったかと言えば、Hシーンの使い方が拙すぎる。『サクラの空と、君のコト』を未読のかたのため、背景設定を説明しますと、桜乃佳奈多(以下、佳奈多)は重大な病気を抱えており、物語の開始時点において、療養のために入院しています。が、涼(本作品の視点人物)たちはそのことを把握しておらず、佳奈多との交流を続けています。佳奈多ルートでは、涼と佳奈多は恋仲になり、Hすることになるのですが、その時点の涼は佳奈多の症状が重篤なものであることを把握していません。なので、そこでのHシーンにはまだ頷けます(ただし、彼女が病弱であることは把握しており、そのような彼女の身体を労わっているにもかかわらず、欲望をぶつけるところには疑問を抱きますが……)

 

問題はその後になります。涼たちは佳奈多の症状が重篤なものであることを知ります。曰く、移植手術をしなければ、彼女は長く生きられないとのこと。そして、移植手術のためのドナーも見つからず、現状を打開するための方法も見つからない。八方ふさがりです。しかし、そのようななか、一つの光が差し込みます。何と、涼の臓器が適応しており、彼の臓器を移植すれば、佳奈多は助かるかもしれないのです。そして、涼は恋人を助けるため、自身の臓器を提供することを決意します。ここで留意しておきたいことは、涼は自身を犠牲にして、佳奈多を助けようとしているのではなく、これからも二人で生きていくために臓器を提供しているということです。つまり、二人とも諦めていないわけです。にもかかわらず、手術前、二人はHします。例えば、どちらかの先が長くなく、死ぬことが約束されているため、最後の思い出のためにそうした行為をするのであれば、まだ頷けます。しかし、これからも生きていくことを誓い合ったあとでそのような行為に至ることは到底理解できませんでした。恋人たちの熱とはそういうものだと言われてしまえば、私には何も言えませんが……これらの展開には商業作品としての作為性、Hシーンを○○回入れなければならない~が透けており、モヤモヤさせられました。下手すれば、千春ルートよりも気に食わないですね(千春ルートはあまりの虚無だったので、不快に思うところも無かった)

 

ⅱ 怜那ルート

 

さて、次は、怜那ルートを取り上げていきましょう。怜那ルートを語るにあたって、欠かせないことは「彼女の可愛さ」です。彼女の可愛さには悶絶必死で(少なくとも、自分はそうでした)読み進めるなかで何度やられてしまったかが分かりません。ということで、彼女の可愛さを語っていきたいのですが、そのまえに、彼女のバックボーンを軽く紹介しておきます。

 

久我怜那、彼女は久我家の息女であり、将来は久我家を継ぐことを目標としています。所謂、野心家ですね。学園では生徒会長を務めており、その野心に違うことなく、圧倒的な働きぶりを示し、生徒からの支持も抜群です。

 

彼女の孤絶した在り方は美しく、それ自体も魅力的なのですが、個別ルートに入ると、また違った顔を見せてくれます。

 

確かに、彼女は孤絶しており、それゆえの美しさを持ち合わせていますが、一方で、彼氏(この場合、涼くん)にベタベタと甘えるような、しおらしさも持ち合わせています。それがまた可愛いんですよね。例を挙げましょう。

 

二人が付き合い始めてからのこと、怜那は公私の区別をつけるために学園では今まで通りに振る舞おうと提案します。しかし、昼休みになると、涼のもとに怜那が駆け込んできて、彼に抱き着きます。事情を聴けば、「充電……んー だって、涼、いい匂いするのよ」とのこと。「あの会長」がこんなにしおらしいところを見せてくるとやられてしまいますよ。また、生徒会室でイチャイチャしているところ、会長の親友、仁科が入ってきたとき、彼女のうろたえるところもとても可愛い。普段は泰然自若としていて、他者を寄せつけないような強さを発しているからこそ、恋人になってからのしおらしさが際立つんですよね……

 

EX) 

 

1 寝起きの怜那

 

実は朝に弱かったらしい。可愛すぎる。

 

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2 仁科にイチャついているところを見られる

 

戸惑うところも可愛い。 

 

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さて、怜那ルートの良さは彼女の可愛さの見せ方にもありますが、それだけでは終わりません。ここで、久我家の先代の当主(怜那にとってはお爺さん)が出てきます。彼は、涼と怜那との距離が近くなったことで、怜那の精神的な脆さが表層に出てきたこと この件(問題)についてはそっとしておいてほしいということを伝えます。確かに、個別ルートに入るまで、彼女は泰然自若としていて、孤絶した在り方をしていました。しかし、今や、涼に依存せずにはやっていけないほどに脆くなっています。先代の言葉をきっかけに、涼くんは冷や水をかけられたかのように目を覚まします。これだけならば、キャラクターの可愛さを堪能していたところ、別の人物が冷や水をぶっかけてきたというだけに思えてしまいますが、これの凄いところはキャラクターの可愛さをしっかりと見せつつ(実際に、私は彼女の可愛さにやられてしまいました。勿論、読者の反応を一意的に措定することはできないため、これを一般化するつもりはありません)それをシナリオの問題提起に接続してくるところです。そして、先代はこうも言っています。

 

感情という論理は、思考によって左右される。そして、強者の言葉はそれを可能とすると。

 

読み手(私)は会長の可愛さにやられていました。しかし、先代の言葉をきっかけにして、そのことへの違和感を覚えさせられます。奇しくも、読み手(私)自身が彼の言葉の正しさを実証してしまっているのです。怜那ルートのすさまじいところは、彼女の魅力を十全に見せつつも、そのことをシナリオの問題提起に接続し、しかも、それがキャラクター(先代)の言葉の正しさを立証してしまうように、物語の構造がデザインされていること、この一点に尽きるように思えました。勿論、これは私の反応に依拠したもので、これを一般化することは難しく、書き手のかたがそれを意識されていたかも不明です。しかし、ここに読み手の意識を誘導するかのように導線が引かれている。そう感じました。

 

ⅲ 彩ルート 

 

さて、最後は彩ルートです。個人的に、彩ルートには悩まされました。それと言うのも、彩ルートは彩ルート本編(便宜上そう表記します)とthe other side of confession(彩ルート本編をクリア後に追加される)の二つに分かれており、the other side of confession が自分の予想していたものとは異なる方向に吹っ飛んで行ったこともあって、当初は面食らってしまいました。正直なところ、理解しきれたとは言い難いですが、思うところを書き綴っていきます。

 

まず、彩ルート本編では言語の不完全性とコミュニケーションの難しさが打ち出されます。曰く、彩は「孤独に完成している」らしく、多数の人々がどのような世界を見ているかを理解できないそうです。まず、これをかみ砕いていくところから始めましょう。

 

多くの人々は言語を媒介にして、世界観を共有しています。そして、それらの圏内にいるものはそこでのルールに則り、コミュニケーションを行うことができます。が、彩は世界観の共有が出来ていないとのこと。にもかかわらず、彼女とのコミュニケーションは成立しているように見えます。それは何故か。これは彼女の先生(一条先生)が多数者にとってのルールを後付けしたことによるのでしょう。これによって、彩は多数者にとっての規則を学んだ。しかし、多数者にとっての規則には、少数者にとっての規則がありません。つまり、彼女が学んだもののなかに、彼女の世界の事柄を表すための規則がなかったのでしょう。だから、彼女は自身の内面についての問題を口にしようとするとき、それをどのように表していいかが分からなかった。何故ならば、彼女の学んだもの(多数者の規則)のなかには、それを表現するための語彙がなかったからです。

 

以上のことから、彩は独自の世界観を有しており、しかも、その世界観を表現するための語彙を持っていません。だからこそ、言語を介してのコミュニケーションでは、彼女の世界観に接近することは難しいと言えます。

 

このように、彩ルート本編では、言語の不完全性(正確には、言語にはグループのようなものがあり、別のグループに属するものはそれらを共約するための術を持たない~という話だと思う)が打ち出されていました。そして、当初はこの主題をもとに物語が展開されていくのだろうと思っていました。ある意味、それは間違っていないのでしょうが、話は明後日の方向に吹っ飛んでいきます。

 

The other side of confession で事態を大きく動きます。涼は事故にあったことをきっかけに、48時間以上の記憶を保持することができなくなります。所謂、前向性健忘症ですね。涼は、病気のハンデを埋めるため、メモ帳を利用します。覚えておかなければならないことをメモ帳に「記録」し、それを見返すことによって、記憶の連続性を擬似的に再現しているわけです。しかし、それはあくまで「記録」です。「記憶」ではありません。では、涼の「記憶」の一貫性を保つことはできないのか。そうではない。それこそが the other side of confessionの解答と言えるでしょう。では、どのようにして、「記憶」の一貫性を保つのか。

 

その鍵は彩にあります。涼が前向性健忘症を患ってからも、その傍には彩の存在がありました。メモ帳は涼の「記録」の一貫性を担保してくれますが、「記憶」の一貫性までは担保してくれません。しかし、彩こそが涼の「記憶」の一貫性を担保してくれます。原理的には、記憶を共有することは不可能です。そのため、私とあなたの記憶が一致することはありません。ですが、彼らの場合、彩にとっての「記憶」が涼にとっての「記憶」でもあるわけです。「記録」は「記憶」の代替手段にはなりえない。だが、涼には彩のほかに事故にあってからの時間をともにしてきたものがいない。その意味で、彩にとっての「記憶」は涼にとっての「記憶」と言えます。恐らく、彩が二人に関する事柄をメモすることを止めたのもこれによるのでしょう。何故ならば、外部記憶装置としての唯一性こそが「涼の記憶」=「彩の記憶」を担保しているからです。

 

確かに、人間は一つになることはできないかもしれない。彩ルート本編では、言語の不完全性が謳われ、それはそのことを浮き彫りにしていました。しかし、記憶の一貫性が損なわれた状態でならば、二人の人間が一つに近づくことはできるかもしれない。The other side of confession は「人間は一つになることはできない」という問題への一つの解答なのでしょう。ですが、私はそれに空恐ろしさを覚えます。一人の人間に自身の存在の全てをアウトソースするということ。確かに、涼は重篤な症状を抱えていて、他に術がないのかもしれませんが……

 

2 後書き

 

読み終えて、批評空間の点数にも納得がいきました。確かに、怜那ルートと彩ルートの出来には目を見張るものがありますが、あまりに出来が違いすぎます……とりあえず、怜那ルートを読めたことで満足しております(彩ルートは消化不良なところがある)

『僕が天使になった理由』感想

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1 はじめに

 

僕が天使になった理由 LOVE SONG OF THE ENGELS 』(以下、『僕が天使になった理由』)は、OVERDRIVEより、2013年2月28日に発売された18禁恋愛アドベンチャーゲームである。

 

本作品では、伊乃郷市を舞台に物語が展開されていくことになる。ある夜、見晴ヶ丘学園の二年生の桐ノ小島巴は一人の天使に出会う。天使の名前はアイネ。彼女はギターによって、人々の心の欠片を返すことを生業としていた。しかし、ふとした出来事から、ギターの弦が切れてしまった。心の欠片は、ギターの演奏だけではなく、弓で対象を射ることによっても返却することができる。だが、アイネは弓を射ることが大の苦手で、対象を正確に射ることはとても出来なかった。このままでは、心の欠片を返却することができず、天使としての生業を果たすことができない。そこで、巴に白羽の矢が立った。彼は弓を射ることを趣味としており、その技術も卓越したものであった。しかし、彼は過去の出来事から、恋愛というものを忌避しており、恋のキューピットの片棒を担ぐことを善しとしなかった。それでも、アイネは心を欠いてしまった人々を放っておくことができず、彼を必死に説得する。やがて、巴はアイネの必死の説得と人々の姿に心を動かされ、天使の生業に渋々と関わっていくことになる……

 

以上の本作品のあらすじである。まず、「心の欠片」とは何かについての確認から始めたい。

 

精神的なショックを受けるような出来事に出くわしたとき、心が傷つくと言われることがある。しかし、本作品では、それは比喩ではない。精神的なショックを受けたとき、人々は心を欠いてしまう。そのときに発生するものが心の欠片だ。そして、心を欠いた人々は、それに起因する出来事に対しての気力を失ってしまう。

 

一つの例を挙げよう。ある女生徒はある男子生徒に想いを寄せていた。だが、想いを告げることができずにいた。そのようなとき、勇気をふりしぼり、その人に告白しようとするも、その人が別の人に告白しようとしているところに出くわしてしまう。そのことで、彼女は精神的なショックを受けてしまい、心を欠いてしまう。そして、彼女は彼のことを諦めたかのように、別の事柄に没頭し始める。

 

これは本作品のエピソードの一つであるが、このことからも、心を欠いてしまったものは欲求が正常に働かないという状態に陥っていることが伺える。当人にはどうすることも出来ないのだ。ここで、天使の出番だ。天使たちは、それぞれの楽器で音楽を奏で、その音楽で人々の心を癒すことによって、心の欠片を返却する。そして、心の欠片が返却されたとき、人々の欲求は正常に機能し始める。

 

さて、ここまでに、本作品のあらすじと「心の欠片」についての確認を進めてきた。本稿では、看護倫理を補助線にして、『僕が天使になった理由』を読み解いていきたい。何故、看護倫理なのか。それは看護倫理を経由することによって、本作品の展開が明晰になると考えるからだ。

 

はじめに、「自律性の要件」という観点から、天使/心を欠いてしまった人々の関係を読み解く。次に、「仁恵の原則」という観点から、天使/心を欠いてしまった人々の関係を読み解き、そこでの義務の対立を取り上げる。最後に、「自律性の要件」と「仁恵の原則」の対立を調停するために、『僕が天使になった理由』ではどのような解答が示されているかを取り上げ、これを結びとしたい。

 

 

2 「自律性の要件」

 

まず、自律性とは何かを確認したい。自律性の要件を何とするかは意見が分かれるだろうが、ここではドローレス・ドゥーリ―、ジョーン・マッカーシーの『看護倫理』を参照したい。本書によれば、自律性の要件とは、

 

1 自由に自主的に行った決定であることー本人の考え、感情、欲求に基づいて行われたものであること。

2 意図的に行った決定であることー本人が意図したものであること。その決定は、誤って(あるいは知らないで)行ったものではないこと。

3 情報を得た上で行った決定であることー状況を理解し、その結果が分かっており、別の選択肢があることを知った上で行ったものであること。

4 熟慮した結果、行った選択であることー想定できる結果をよく考えた上で行ったものであること。[i]

 

とされている。ここでは、1の要件に着目したい。先に確認したように、心を欠いてしまったものは起因する出来事についての欲求を抱くことができなくなってしまう。これは「自律性の要件」の1を満たしていない。「自律性の要件」の1とは「自由に自主的に行った決定であることー本人の考え、感情、欲求に基づいて行われたものであること」だが、心を欠いてしまったものは欲求が正常に働かないという状態に陥っている。そのため、それは欲求に基づいて行われたものであるとは言い難いのではないだろうか。

以上のことから、天使の生業とは損なわれた自律性を回復させることであると言える。だが、そのようなことを行うことは本当に良いことなのだろうか。次節では、自律性を回復させること(天使の生業)に付随する問題を取り上げる。

 

3 「仁恵の原則」

 

まず、仁恵の原則とは何かを確認したい。『看護倫理』によれば、仁恵の原則とは

 

患者に害を与えることを避け、患者の健康と幸福を促進するように努めなければならない[ii]

 

こととされている。ここでの「患者」を「心を欠いてしまったものたち」を読み替えると分かりやすいだろう。天使たちは心の欠片を返すことによって、その人々の幸福を促進しようとしており、それを生業としている。さて、ここで、「自律性の要件」を思い出したい。心を欠いてしまったものたちは「自律性の要件」の1を満たしておらず、天使たちはそれを回復させようとする。だが、「自律性の要件」を回復させようとしたために、「仁恵の原則」に抵触してしまうというケースが考えられる。『僕が天使になった理由』の第三章を例に、そのことを確認したい。

 

僕が天使になった理由』第三章では、堂崎文子、西町美里、小ヶ倉章吾の三角関係が描かれていく。まず、文子はウミコフというハンドルネームを使い、テキストチャットサイトにて章吾(HN:koga156)と親交を深めていた。あるとき、章吾は実際に会ってみたいと申し出る。だが、文子は自身の容姿にコンプレックスを抱いており、返事を保留していた。そのようななか、文子の親友の美里が章吾に想いを寄せており、彼を紹介してほしいとお願いする。そして、文子は彼女の頼みを聞き入れ、二人を引き合わせる。しかし、文子も章吾(koga156)に想いを寄せており、複雑な心境に陥っていた。文子は迷いを晴らすため、アイネの恋愛相談室に悩みを持ち寄る。アイネは文子の悩みを真摯に聞き、彼女の背中を押す。アイネの後押しに勇気付けられ、彼女は章吾(koga156)と会うことを決意する。そして、文子はウミコフとして、章吾と会うことになるの。だが、彼に会ったときに彼女が眼にしたものは、彼の残念そうな表情であった。そのことで、彼女の心は欠けてしまう。

 

以上が『僕が天使になった理由』三章のあらすじとなる。このあと、アイネは巴に欠片を返してやってほしいと頼み込むことになるが、巴は簡単には受け入れない。曰く、彼女に心の欠片を返してやったとしても、告白が上手くいくとは限らない。それどころか、失敗したときには大きな傷を負うことになるかもしれないと。ここでは「自律性の要件」の回復と「仁恵の原則」の遵守が対立していると言えよう。天使の生業からすると、彼女に欠片を返さなければならない。だが、欠片を返してしまうと、彼女は再度の傷を負うことになるかもしれず、その場合は「仁恵の原則(患者に害を与えることを避け、患者の健康と幸福を促進するように努めなければならない)」に抵触してしまう。ある種のジレンマだ。

 

このジレンマを解決するための明確な方法はないのか。『僕が天使になった理由』ではそのようなものは提示されていない。では、天使たちは諦める(あるいは思考停止する)ほかないのか?そうではない。次節では、『僕が天使になった理由』ではどのような解答が示されているかを確認したい。

 

 

4 天使の倫理

 

さて、先のジレンマを解消するためにはどうすればいいのか。『僕が天使になった理由』では明確な解答は提示されていない。だが、どのようにすべきかという最低限の指針は示されている。

 

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これは巴にとっての弓の師匠の言葉だ。ここにあるように、他者とのあいだには壁がある。私はあなたではないし、あなたも私ではない。だからこそ、他者の気持ちを完全に理解することは不可能だろう(そもそも、完全に理解可能ならば、そこには「あなた」「わたし」という区分も無意味かもしれない)

 

だが、他者の気持ちを完全に理解することは不可能だとしても、アイネはそれに寄り添おうとする。確かに、他者の気持ちを完全に理解することはできないかもしれない。だが、それの断片に触れることはできる。そして、天使の生業を果たすにあたって、他者の気持ちの断片を汲み取ろうと力を尽くすこと。そのうえで、どのようにすべきかを考えること。それこそが、天使たちにとっての最低限度の倫理と言えるのではないだろうか。

 

 

5 後書き

 

ということで、『僕が天使になった理由』についての感想(?)でした。素人が調べたことなので、至らぬ点もあるとは思いますが……また、本稿はやーみ様のツイートに触発されたことで書き始めたという経緯があります。やーみ様にはこの場を借りて御礼申し上げます。さて、『僕が天使になった理由』に話を戻しますと、とにかく、共通ルートが抜群に好ましかったですね。批評空間での高得点は共通ルートによるところが大きいです。と言えど、個別ルートが嫌いというわけでもなく、奈留子ルートはお気に入りです。このあたりの話は別の記事で書きたいなぁと思っております。

 

参考文献

 

[i] ドローレス・ドゥーリー、ジョーン・マッカーシー『看護倫理』P19

[ii] ドローレス・ドゥーリー、ジョーン・マッカーシー『看護倫理』P42

『僕が天使になった理由』雑感 印象的・好きなシーン集

 

1 前書き

 

前回の記事では『僕が天使になった理由』の共通ルートに焦点を当てましたが、語りきれなかったところがあったので、今回はそのあたりに触れていきます。また、以下の内容にはネタバレが含まれております。ご注意ください。

 

2 『僕が天使になった理由』印象的・好きなシーン

 

ⅰ共通ルート

 

 

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幼馴染ですねぇ。何てこともない場面ではありますが、彼女の想いの深さが伺えるところが良いですね。

 

 

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アイネは表情が本当に豊かで、こちらも楽しく(?)なってきます。可愛い。

 

 

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「誰にも聴かれない音楽にどんな価値があると思う」 これは難しい問いだと思います。最近、『月と六ペンス』を読み終えたこともあって、この種の話題には敏感になりがちなところがあり……

 

 

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この作品では、どちらの選択肢をとるかで悩まされましたね……前回の記事でも言及しましたが、私たちにできることは彼らの気持ちを推測し、決断することだけなんですよね……その意味で、天使/心を欠いてしまったものたちの関係性はプレイヤー/プレイヤーキャラクターの関係に類比的かもしれないなぁと思いました(本人の意思とはかかわらず、その人の運命に介入するという点において)

 

 

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このCG、良いですよね。『僕が天使になった理由』のCGは構図が好みのものが多く、そちらも楽しめました。

 

 

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アイネのこういうところは好きですね。倫理的だと思います。しかし、この場面はアイネの特異性を際立てるためか、他の天使の適当さが目について、何とも言えない気持ちになりました(しかし、天使の状況を踏まえるとむべなるかな……)

 

 

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この問題、わりと根が深いのではと思っています。言ってしまえば、天使の仕事は誰かの不幸のうえに成り立っていて、しかも、天使はその役目を果たせないと存在を維持することができないというのはえげつない話だと思います。このあたりの話は『Fate /Stay Night』においてもされていましたね(確か)

 

 

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 アイネのこういうところは好きになれないですね。誰もが、彼女のように強くあれるわけではないので……一方、桐ノ小島くんはこのあたりの配慮がしっかりしているなぁという印象。多分、過去の経験で深い傷を負ったからこそ、そのような人間への気配りがしっかりとしているのだろう(このあたりは普遍化しがたいところでもありますが)

 

 

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これは微妙な問題ですよね。相手の気持ちを配慮することは大事でしょうが(前回の記事で言及したように)、行った側がそれを主張してしまうと、独断の免罪符になりかねないという危うさがあるようにも思えます。

 

 

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この二人には本当に幸せになってほしい……

 

ⅱ 奈留子ルート

 

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ライオスくん、倫理的ですよね。

 

 

 

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 可愛いんですよね……このルート では、些細な描写からもやりきれなさが拭えないところがあり、素直に萌えられないとも言えますが……

 

 

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 奈留子の愛が深さが辛い(褒めています)自分の気持ちを押し殺し、それを押し殺しているということすらも当人には気取らせない。ひたむきな献身 が眩しすぎる。やはり、自分はこの種の描写に弱いらしいです(『Rewrite』のterra 編の最後の選択肢などもそうですが……あれも愛ですよね)

 

 

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 このCGは構図が素晴らしいですね。カメラが引いた位置に置かれていることによって、二人の距離の遠さが浮き彫りになっている。

 

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 清人くんの格好良さが辛い。本当に良い人で、だからこそ、辛さが際立つのですよね……

 

 

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 何故、先生がいるのだろうか……?奈留子ルートでは、先生は恋人と故郷に帰ったはずで(確か)、ここにはいないはずなんですよね。赤い糸の影響によって、二人は別れてしまい、先生は復職した~という経緯があるならば、頷けるのですが……いずれにしても、唐突さが否めませんでした。

 

 

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 このあたりは、天使業についての話としても読めますよね。

 

ⅲ アイネルー

 

 

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 この絵は口元の描かれ方が絶妙ですよね。恥じらい・そのほかの感情が入り混じっているという、感情の機微が表れている。可愛い!

 

 

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 美しすぎる……

 

 

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 個人的に、アイネルートは、誰かが利益を享受するとき、別の誰かがそれの皺寄せを食らうという、犠牲の論理をどのように打破するかという話だと解釈しています。そして、犠牲の論理を打破するために誰かが犠牲となっていては、それは犠牲の論理の再生産でしかないのです。だからこそ、その者(この場合、桐ノ小島くん)が犠牲になったという意識を読み手に植え付けることはあってはならない。これを踏まえると、桐ノ小島くんが言っていることは頷けます。誰かを助けるために犠牲となることが、その者にとっての幸福に繋がっているならば、そこにあるものは win-win の関係です。この場合、犠牲になったという認識は弱まるように思えます(個人的に)しかし、この論理には穴があるように思えます。何故ならば、この論理を受け入れてしまうと、犠牲になることを自身の幸せとするようなものを生み出すことを否定することができなくなってしまうからです。自分は、そのような社会が正しいとは思えず(空疎な話かもしれませんが)、だからこそ、桐ノ小島くんの主張を手放しに受け入れることはできませんでした。そのこともあって、このあたりにはモヤモヤしているところがありますね。

 

 

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 同様の理由で、ここもモヤモヤしましたね。天使たちはそれを受け入れており、こちらにとっても利益になることであるため、これを否定することは難しい。が、そのままに受け入れることは違うのではないかと 何故、それはいけないのか(そもそも、本当にいけないのか)を考えることは課題ですねー。

 

 

 添い寝CG、GJ!(はてなブログの規約に抵触しそうなので、CGの掲載は控えています)

 

 

3 後書き

 

ということで、『僕が天使になった理由』の雑感でした。一応、前回の記事では『僕が天使になった理由』での主題(?)についての言及をしましたが、片手落ちなところがり(例えば、天使たちの独断によるところが大きいという点において、天使と天使業の対象の関係性はアンバランスなものですが、そもそも、そのようなものは許容されるのかという問題があり……問題についての同意を得ることが難しいからと言って、そのために独断が許容されるという話になると、転げ落ちていくようにあらゆることが許容されてしまいそうで)そのあたりについては今後も考えていきたいですね。また、考えが纏まったら、何らかの記事を書くかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『相思相愛ロリータ』感想

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「初めて母さんのことを母さんではないと感じたのは、その涙を見たときだった」『相思相愛ロリータ』

 

こどもにはこどものせかいがあるように、大人には大人の世界がある。例えば、彼が生まれるまえ、父さんと母さんは「父さん」「母さん」ではなく、ただの男と女だったかもしれない。*1 そこには家族であったとしても、立ち入れないものがあるのだろう。母さんの涙を見たとき、彼はそれを感じとった。

 

一度、そのことが意識されてしまうとこれまでの関係ではいられなくなってしまう。彼にとっての母さんは目のまえの母さんだ。しかし、その背景にはいくつもの「母さん」が横たわっていて、それらに触れることはかなわない。圧倒的な断絶。だから、彼はしっかりとしなければならないと思ったのだろう。もはや、母さんに甘えているだけではいられなくなったから。

 

このように、ふとしたことで、近しいと思われた人は遠ざかってしまう。彼の場合、それは母さんだった。そして、まこも似たようなものを抱えていたのだろう。

 

彼らは互いの孤独を埋めあうようにつながった。きっと、そこには一切の偽りもなかったのだろう。もちろん、本当にそうであったのかは分からない。何故ならば、おかくんがまこの本心を知ることができないように、読み手にも、まこの本心は分からないからだ。だが、彼らは嘘≠建前を並べ立てることは、人と人との距離を遠ざけることを知っていたのではないだろうか。おかくんが母さんのことを母さんでないと感じたように、一度、本音と建前が意識されてしまうと、そこには遠慮が生じてしまう。遠慮が生じてしまうと、お互いを預けることはできなくなる。

 

きっと、彼らはそうありたくはなかった。何故ならば、遠慮が生じてしまうと、お互いがお互いを遠ざけてしまう。孤独を埋めるために繋がったにもかかわらず、そこでお互いを遠ざけてしまう。これでは本末転倒だ。だから、彼らのあいだに嘘はなかった。

 

「帰る。そう。帰るんだ。自分の部屋に。でも、そんな場所に帰りたいわけじゃなく、帰る場所なんて、もうとうに失くして」『相思相愛ロリータ』

 

帰る場所がある とはどういうことか。住居があれば、それが帰る場所になるのだろうか?恐らく、そうではない。住居があったとして、あくまで、それは生活するための拠点だ。心の乾きを満たすとは限らない。

 

英語には「home」「house」という語句がある。いずれも「家」を意味する語句であるが、意味のニュアンスは異なる。「house」は建物・住居自体を指すための用いられることが多いが、「house」は帰る場所・心の拠り所を指すために用いられることがある。*2 まさに先の問題とはこれのことだ。「house」があるとしても、それが「home」であるとは限らない。だからこそ、おかくんは「そんな場所に帰りたいわけじゃなく」と漏らしたのだろう。

 

しかし、おかくんとまこ、二人が日々を重ねるなか、彼らにとっての家の意味が変わってきた。

 

「まこはね。これから行くところなんだよ。帰るんじゃないの」

 

まこにとって、「house」とは施設のことだ。しかし、おかくんのように、「house」があるとして、それが「home」たりえるとは限らない。いつしか、おかくんの家は二人にとっての「home」となっていたのだ。

 

ある意味、おかくんもまこちゃんも家庭環境の不和を抱えている(いた)そんな二人が寄り添い、孤独を埋めていく。「home」が「house」となっていく。だから、これは二人が家族になるまでの話なのだろう。

 

*1 「父さん」「母さん」を一意的に男と女と規定することが諸々の複雑な問題に抵触しそうだったので、「かもしれない」と言葉を濁しました。

*2 間違っていたら、すみません……

 

補遺 所謂「母性ロリ」のすさまじさの片鱗というものに触れた。無尽の赦しは底なしの空虚さから溢れ出てくるのだな と思った。「他になにもないから」と言わしめてしまうほど、彼女の環境は壮絶なものであったのかもしれない。鬱。

『さびしがりやのロリフェラトゥ』感想

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『さびしがりやのロリフェラトゥ』はガガガ 文庫より出版された、シナリオ:さがら総、イラスト:黒星紅白ライトノベルである。本作品はいくつかのショートストーリーで構成されている。いずれのストーリーも視点人物は異なるものの、その背景設定は共有されている。では『さびしがりやのロリフェラトゥ』がどのような話であるかを理解するため、本作品の二章にあたる「常盤桃香と高貴なる不死者」の確認を進めたい。

 

常盤桃香は女子高校生だ。だが、彼女は「普通の」女子高校生ではない。何故ならば、彼女はライトノベルの作家だからだ。

 

しかし、現在の彼女はスランプに陥っていた。「ヘンテコ王子とナントカ姫」でデビューを遂げてから一年。彼女は新刊を出せずにいた。そもそも、書きたいものが書けないからだ。勿論、担当の編集がそのような彼女を放っておくこともなく、必死にサポートする。が、その結果はむなしく、ついには担当の編集に見捨てられた。

 

ライトノベルの作家としての在り方も失い、宙ぶらりんの彼女はある噂を耳にする。曰く、夜になると旧校舎には吸血鬼が現れるらしい。あまりに馬鹿馬鹿しい話。しかし、そこに縋る思いがあった。放課後、旧校舎を訪れ、そこで美しい吸血鬼(ノスフェラトゥ)に出会う……

 

以上が「常盤桃香と高貴なる不死者」の大まかなあらすじになる。さて、この後、常盤桃香と吸血鬼(ノスフェラトゥ)は交流を続けるのだが、ある時、もう一人の吸血鬼が現れる。それは学校の生徒を惨殺し、その死体を吊し上げる。そして、吸血鬼(ノスフェラトゥ)はそれらの死体を目にして、凄惨な笑みを浮かべるのだ。常盤桃香はそこに断絶を覚えた。ヒトと吸血鬼(ノスフェラトゥ)は分かりあえないのだと、かくして、常盤桃香と吸血鬼(ノスフェラトゥ)の交友関係は終わりを迎える。

 

しかし、話はこれで終わらない。物語の終盤にはある事実が明かされる。それは「常盤桃香は声を出すことが出来ないため、筆談でコミュニケーションをとっているということ」だ。確かに、「常盤桃香と高貴なる不死者」を確認してみると、そこに常盤桃香の発言は認められない。あくまで心中の独白があるだけだ。この事実は巧妙に伏せられていた。それは何故か?常盤桃香が信頼できない語り手だからか。恐らく、そうではない。彼女にとって、声を出せず、筆談でコミュニケーションをとるということは当たり前のことだったからではないだろうか?

 

本作品においては、一人称の形式が採用されている。「常盤桃香と高貴なる不死者」では常盤桃香を語り手に、彼女の思考・意識がどのようなものであるかが描かれていた。そして、重要なことはそこには語り手の意識が反映されているからこそ、語り手が意識していない事柄は描写されないのだ。つまり、そこには語り手にとっての「意識の盲点」がある。

 

『さびしがりやのロリフェラトゥ』では、この「意識の盲点」が重要な位置を占める。以下では、このことを前提に「シギショアラと恐るべきケダモノ」を確認したい。

 

さて、この話であるが、視点人物はシギショアラという吸血鬼(ノスフェラトゥ)に変わっているものの、シギショアラとは「常盤桃香と高貴なる不死者」の吸血鬼(ノスフェラトゥ)である。つまり、描かれている出来事はさきほどの「常盤桃香と高貴なる不死者」と同じと言える。では、恐るべきケダモノとは何を指しているのか?もう一人の吸血鬼なのだろうか。これにはいくつかの解釈がありえるように思えるが、ここでは恐るべきケダモノ=常盤桃香という解釈を取り上げたい。

 

何故、常盤桃香なのか?彼女はおとなしげな少女ではなかったのか。ここでは常盤桃香の意外な側面が明かされる。以下の場面を確認していただきたい。

 

「わたし、小さい女の子が裸になって無理やり手足を押さえつけられて、涙と鼻水と液体まみれになってぐちゃぐちゃにされるのが好きなんです」[i]

 

これは常盤桃香の発言である。曰く、彼女は幼げな女の子が好きらしく、著書においてもそのような内容が描かれているとのことだ。そして、実際の姿が幼女のシギショアラは彼女の嗜好にわずかな恐怖を覚える。ここで意識していただきたいことは「常盤桃香と高貴なる不死者」ではこのようなことはどこにも記されていなかったということだ。このことは「常盤桃香と高貴なる不死者」のみでは分からず、「シギショアラと恐るべきケダモノ」という別の視点の物語を経由することで明らかになった。つまり、ある視点人物にとっての「意識の盲点」はそれ自体では見えにくいが、別の視点を経由することで明らかになるのである。

 

例えば、三角柱をイメージしていただきたい。正面から見ると、それは長方形に見えるだろう。また、別の角度から見ても、長方形に見える。そして、もう一つの角度から見ると、三角形に見える。だが、それぞれの視点の情報を総合すると、三角錐という立体が浮かび上がってくる。

 

ここでは同型の構造がとられているのだ。つまり、それぞれの情報を集めることで物語の全体像が見えてくるようになっている。

 

さて、ここまでに確認してきたように、『さびしがりやのロリフェラトゥ』では、それぞれの物語の情報を集めることで、物語の全体像が見えてくるという構造がとられている。

 

では、全ての物語を経由するとどのような構造が見えてくるのか。それは「意識の盲点」があるからこそ、それぞれの主観では他者を理解することができず、それゆえにディスコミュニケーションが生じる というものだ。何とも、救いようがない。では、この断絶を乗り越えるための方法はないのだろうか?

 

恐らく、断絶を「完全に」乗り越えることは困難だ。だが、問題を軽くすることはできるかもしれない。

 

「物語というのはただそのためにあるんだ」[ii]

 

物語とは何のためにあるのか。これでは問いが漠然としすぎている。そこで焦点を先の「断絶を乗り越えるための方法」に絞る。

 

ここで、『さびしがりやのロリフェラトゥ』では「意識の盲点」によるディスコミュニケーションが描かれていたことを思い出していただきたい。彼らがそれぞれのディスコミュニケーションに気付いたのは事態が進みきってからのことだ。つまり、手遅れだ。しかし、読み手は『さびしがりやのロリフェラトゥ』を読み進めることで、彼らがどのような点ですれ違っているかに気付くことができる。何故ならば、視点人物はそれぞれの主観を抜け出せないが、読み手はそれぞれの主観を俯瞰的に眺めることができるからだ。

 

このことは、物語には視点人物・語り手・人称 などの装置があり、それらを駆使することによって、それぞれの主観は異なること、主観には「意識の盲点」があることへの自覚を促しうるという可能性を示唆している。

 

視点人物たちがそれぞれの主観を抜け出せないように、私たちも自身の主観を抜け出すことはできない。だが、物語を通して、それぞれの主観は異なるということを擬似的に経験することはできるかもしれない。そして、それによって、私たちの主観には相違があるということを認めること。これこそが、断絶を乗り越えるための一歩となるかもしれないのではないだろうか?

 

 

 

 

[i] 『さびしがりやのロリフェラトゥ』p117

[ii] 『さびしがりやのロリフェラトゥ』p269