『BEATLESS』感想

■前書き

 

お久しぶりです。今回は、以前に読み終えた『BEATLESS』の感想をまとめていきたいと思います。そして、『BEATLESS』と言えば、アニメ化されて現在も放送されている作品ですが、アニメ版については視聴していないため、本記事では原作『BEATLESS』の内容についての言及が中心となります。

 

■あらすじ

以下、本書(上巻)の裏面のあらすじの引用

 

100年後の未来。社会のほとんどをhIEと呼ばれる人型アンドロイドに任せた世界では、人類の知能を超えた超高度AIが登場し、人類の技術を遥かに凌駕した産物≪人類未踏産物(レッドボックス)≫が生まれ始めていた。17歳の遠藤アラトは四月のある日、舞い散る花弁に襲われる。うごめく花弁からアラトを救ったのはレイシアという美しい少女のかたちをしたhIEだった。

 

■雑感

 

以下では、はじめに本作品のアナログハックがどのようなものであるかについての確認を行い、後にアナログハックについての確認を下敷きに本作品で描かれていた人とモノとの関係性という点についての確認を進めていきたいと思います。

 

□アナログハックについて

1アナログハックとは何か

 

まず、アナログハックとは何かについての確認から始めたいと思います。以下引用

 

 

「アナログハック!hIEが、人間の形をしているけど、人間と同じ意味を持っていないこと。形が同じだから、意味を判断する人間側が勝手にズレを作って錯覚にはまり込んじゃうの・・・」上巻p108

 

 

 

「カタチを利用して人間を自発的に動かすっていう、社会へのハッキングを行ったのよ」上巻p108

 

 

以上の記述から、アナログハックは人間の認知を逆手にとって、自発的な行動をうながすことであると言えるでしょう。次に、このようにアナログハックが成立する背景とはどのようなものであるかについての確認に移ります。

 

2アナログハックの背景

 

アナログハックが可能となる背景には、第一に人間がどのようなかたちで認知を行うかが把握されていること。第二に、認知の仕組みを前提にどのような性質にどのような認知が働くかという傾向が把握されている必要があること(これはアナログハックが行動を誘発するものであることを考えると、どのような振る舞いでどのような行動が誘発されるかの傾向性が把握されていることは技術として運用されるうえで必要であるように思えます)そして、傾向性を把握できるようなものが成立していること の二点がおよそ挙げられるように思われます。以下では、それぞれが作中でどのように描かれているかを確認したいと思います。

 

まず、人間がどのようなかたちで認知を行うかが把握されていることについてですが、作中では以下の記述で認知の性質についての言及がなされています。

 

 

「視覚って、頭で意味を考えるより速いから、考える前に人を動かせるの・・・」上巻p110

 

 

 

ビジョンはいつも生命よりも機敏だ。アナログハックは、そもそも視覚によるビジョンの受け取りが生物としての判断よりも高速だから、好意にセキュリティホールを開けられるものだ。つまり、情報から像を想起する速度に生命はいつも振り回される。下巻p492

 

 

このことは、アナログハックが可能となる背景には人間の視覚による認知の帰結としての行動は認知された対象の意味についての判断をした後での行動に先行するという事実があることを示唆しているように思われます。つまり、判断に先行して、自動的な反応を返すような傾向性が人間には備わっていると言え、アナログハックはこのような傾向性を前提に成立していると言えるでしょう。

 

次に、認知の仕組みを前提にどのような性質にどのような認知が働くかが把握されている必要があることと傾向性を把握できるようなものが成立していることについてですが、このことについては作中で渡来銀河という人物が言及しています。以下引用部分

 

 

あらゆるHIEのセンサー情報は、それぞれ行動管理クラウドに送り返されて、ここで処理を受ける。このとき、ユーザ―によるhIEの使われ方の情報が、データ自身について記述したメタデータとして、ネットワーク上に繋留される。上巻p443

 

 

 

IEの行動管理クラウドは、自らの質を高めるために、多くの人間用のクラウドサービスと提携している。人間のほうのサービスは、百年以上前からあって、人間にどこかでつながっているデータと、それを扱う中間管理プログラムを膨大に集めている。集まったデータには、こういう濃淡がある。上巻p445

 

 

 

人間がクラウドに要求することで、クラウドには、要求と、似た欲求にスピーディーにこたえるための予習のデータの両方が残る。そのせいで、何年も経つと、よく使われる処理には膨大なデータが高く積み上がり、そうでないところはまばらになる。上巻p445

 

 

 

このクラウド群からは否応なく人間の要求の像が浮かび上がる。集まった要求の濃淡は、サービスが歴史を積むほど人間を精密に形作る。上巻p445-446

 

 

以上の引用部分の内容を要約すると、hIEの一連の行動は、行動管理クラウドや外部のクラウドサービスに蓄積された、hIEが人間にどのように扱われ、どのようなものが望まれているかという情報を参照になされています。また、このようなクラウドサービスでは人間の要求する振る舞いという基準でデータが集積されているからこそ、諸々の振る舞いを好悪という基準で振り分けることを可能にするように思われます。そして、このようなデータベースがあることで振る舞いにより行動を誘発するというアナログハックは可能となっていると言えるでしょう。実際に作中では行動管理クラウドのデータベースに蓄積された情報を参照にレイシアがとった行動にアラトが行動・感情を誘発されている場面が認められます。

 

3アナログハックの一般性

 

前節では、アナログハックが可能となる背景についての確認を進めましたが、ここではアナログハックがhIEと人間のあいだでのみ発生する現象ではなく、人間と人間のあいだにも発生する現象であることを確認したいとおもいます。

 

まず、アナログハックが人間と人間の間においても発生する現象であることを確認するにあたって、作中のエリカ・バロウズというキャラクターについての確認から始めたいと思います。彼女は「二〇一一年生まれの人間で二〇二七年に当時開発されたばかりの被験者になった。その後、七十七年が経過した後に二千百四年に目覚めた」p533という背景を持つキャラクターです。そして、彼女はアナログハックなどが成立していない時代に生まれ、現在そのような技術が当たり前のようにある時代に目覚めており、そのような彼女がかつて生きていた時代においてもアナログハックのようなものは成立していたと主張していることはアナログハックが固有な現象でないことを裏付けているように思われます。以下引用

 

 

いい加減でないとアナログハックなんて機能しない。わたしが子どもだったころだって、ハックみたいに、架空のキャラクターに誘導されていたもの。純粋な架空情報ではなく人が演じる架空の人物や神なら、ずっと昔、たぶん文明の始まりからよ 上巻p554

 

 

また、エリカはファビオンMGというメディアグループのCEOを務めているが、そこでの仕事においてユーザに大きな影響を及ぼしている。そして、このことはかたちで人間を誘導するシステム、つまりアナログハックが経済によって制御されるという事実を認識していることに負うているとされている。以下引用

 

 

かたちで人間を制御するシステムは、そのかたちに破壊的な影響をおよぼす経済によって制御される。そういう仕組みをよく認識しているから、彼女はファビオンMGの仕事でユーザ層に大きな影響を及ぼしている 下巻p156

 

 

以上のことから、百年前にも生きていた人物の視点を経由することでアナログハックという現象はhIEと人間に固有のものではなく、人間と人間のあいだにおいてもモノを経由することで発生するという事実が確認されたと言えるでしょう。そして、アナログハックがhIEと人間に固有のものではないという事実から、アナログハックが成立する背景もこの時代に固有のものではないということが言えるように思われます。それはアナログハックについての問題が過去との連続性をいくらか有することを示唆していると言えるのではないでしょうか。

 

4アナログハックをめぐる問題について

 

前節では、アナログハックという現象がhIEと人間に固有の現象ではないことを確認しましたが、ここでは、アナログハックについての問題の確認を中心に進めていきたいと思います。

 

まず、アナログハックへの批判的立場の一つとして、hIEが人間社会の多くの場所で機能しており、アナログハックで人間の行動が誘発されているという事実に批判的であるという立場が挙げられます。要約すると、社会でhIEが果たす役割が拡大することに脅威を覚え、そのことを主張する立場であると言えます。そして、このような立場の主張の背景にはアナログハックという現象は道具を使用する人間と道具として使用されるhIEの主客の転倒を引き起こしており、そのような事実は主張者の価値基準にそぐわないということがあるように思われます。

 

しかし、前節で確認したようにアナログハックという現象はその時代に固有な現象ではないことが示唆されています。そのことから、作中でのアナログハックへの批判的な立場は、その現象が固有のものではないという事実から一定退けられるように思われます。つまり、アナログハックはHIEと人間に固有な問題ではなく、より広範な問題として扱うという立場が対立意見として浮上してくるのです。しかし、アナログハックによって人間とhIEの立場が逆転しているという事実への忌避感自体は退けがたいように思われます。

 

そして、このことについては道具と人間という観点から問題を整理することで解決するように思われます。以下では道具と人間という観点からアナログハックをめぐる問題についての整理を試みたいと思います。

 

□道具と人の関係性

 

まず、本作品で道具がどのように位置付けられているかについての確認から始めたいと思います。ここでは、上巻でアラトの父、遠藤コウゾウの発言を参照項に道具の位置付けについての確認を始めたいと思います。以下引用

 

 

「時間のために、人間は、仕事を嘱託して外部化する。だから、人間にとって理想の道具とは人間と意志が通じて、かつ道具のように働くものなんだ。けれど、歴史的には、道具の性能がそこに追いつかなかった。だから、奴隷を求めたり仲間になったり会社組織のようなものを作ったりもして、人間を道具のように働かせてきた。」上巻p436

 

 

 

「・・・今の道具のインターフェースが、応答性が高くてわかりやすいのだって、道具を人間に近づけるためだ。道具と人間は、一見離れているが、時間を開放するという同じレールに乗っている」

 

 

以上の発言から、道具は時間の縮減、つまりは過程の省略を可能とするようなものであると言える。そして、hIEは意思疎通可能で人間に可能な行動を嘱託可能であるという点から理想的な道具であるとされている。事実、hIEが人間にとっての過程の省略という点から理想的な道具であることは、本作品でhIEが社会中のいたる場所で活躍している事実が明示されていることを踏まえると説得力を有するように思われる。つまり、従来は人間が行っていたような作業も代替可能となったことで人間にとっての過程の省略は達成されているのです。

 

更に、このことを踏まえるとアナログハックについての問題も整理可能であるように思われます。まず、hIEは、従来は人間が担っていたような作業を嘱託されているという点で道具であると言えます。そして、hIEのアナログハックも従来は人間のあいだでなされていたことが外部化されたものとして理解できるでしょう。そのため、アナログハックは人間の間でなされていたものが嘱託されたものであることから、hIEの問題ではなく、人間の問題として扱われるものであるように思われます。このように道具と人間という観点を経由することで人間とhIEの主客転倒現象はhIEが道具であり、人間に可能な作業のいくらかを外部化されているために発生していると言えるのではないでしょうか。

 

 

 

■まとめ

 

ここまででアナログハックと人間と道具の関係性という二点についての確認を進めてきましたが、本書でとりわけ印象的であった点は道具と人という軸が導入されていることで被造知性脅威論のようなものが異なる問題系に読み替えられるようなつくりとなっていることでした。

 

『刺青の男』感想

1前書き

 

お久しぶりです。以前にお勧めいただいた『刺青の男』を読み終えたので、今回は『刺青の男』に収録されている各短編についての所感を中心にまとめていきたいと思います。

 

2概要

 

まず、あらすじの確認から始めます。

 

ある昼下がり、わたしは身体中に無数の刺青が彫られた男と出会う。彼が言うには彫り込まれた刺青は彼が眠ると蠢きだして、それぞれが物語を紡ぎ始めるらしい。そして、夜が訪れ、それぞれの刺青は物語を紡ぎ始めた・・・

 

本作品では以上の「刺青の男」を枠組みの物語に他18個の短編が収録されているという構成がとられています。また、各々の短編は独立しており、背景設定などは共有されておりません(恐らくは)そのため、どの短編からでも読み進めことが可能なつくりとなっているように思えました。

 

3各短編 所感

 

以下では本作品の収録されている18個の短編についての所感をそれぞれまとめていきたいと思います。

 

1 草原

 

日常的な家事や育児などを自動的に負担する機能が備え付けられた家屋、ハッピーライフホームが舞台の話。家事や育児などを外部化しすぎたために親子関係自体が転倒してしまうところが話の肝であるように思われた。テクノロジーの発展に伴った、人間関係の変容は以前に読んだ『華氏451度』においても描かれていたが、こちらは結末などからややホラーテイストなところが強い。

 

2 万華鏡

 

本作品に収録されている短編のなかでもお気に入りの作品の一つ。ロケットの破裂から船外に放り出された宇宙飛行士たちが死に至るまでの過程が描かれた話であらすじとしてはシンプルなのですが、とりわけ心理描写が印象的でした。船外に放り出され、死を待つのみの彼らは誰かの汚点を晒し上げることで自身の生に意義があったことを相対的に主張しようとするも、後に死が近づくにつれて、各々がみじめさを抱えたままで死ぬよりも生に納得したうえで死を迎えることができるように配慮するようになる。このような転換が印象的で死を待つものたちのコミュニケーションの意義が浮き彫りになっているように思われました。また、結末の視点転換が良い。

 

3 形成逆転

 

火星に移住し、そこで労働をさせられていた黒人たちのもとに核戦争で荒廃した地球から白人が訪れるという話。個人的に言及しづらい作品です。素朴な感想として、そこまで戦争が継続していたことが愚かしさを呈しているように思われるところがありました。

 

4 街道

 

核戦争が始まるも、そのことを知らない男を視点人物とした話。視点人物のエルナンドは、諸々の描写から辺境の街道に住んでおり、そのことから世情には疎いように思われる。そして、蚊帳の外のエルナンドを脇に状況が刻々と進展していくという描写は視点人物と状況のギャップを浮き彫りにしており、コメディ的な面白みがあるように思われました。

 

5 その男

 

ある宇宙隊は長旅の末にたどり着いた星に着陸するも、彼らを出迎えるものが一人も来ないことを不審に思った隊長は部下を街に向かわせる。そして、戻ってきた部下が言うにはこの星にはあの男が来ているらしく、町はそのことで賑わっているという話。あの男については面識がある人々が述べる内容も異なり、正体は漠然としたままで終わる。後半部分に隊長と三人の部下のみが星から発ち、他のものはその場にとどまるという場面があるが、ある種の開拓精神のために安らぎを得ることができないという図式がここには見られるように思われました。

 

6 長雨

 

舞台は金星で雨が降り続くなか、安息できる場所を求めて歩き続ける男たちの話。徐々に精神的・肉体的な疲労を覚え、やがては狂気の至る男たちの心理描写がとりわけ印象的でした。

 

7 ロケットマン 

 

宇宙飛行士の父をもつ少年の話。物悲しい結末が印象的でした。

 

8 火の玉

 

宇宙開拓時代に宣教師が火星に向かい、現地の人々を教化しようと試みる話。あらすじとしてはシンプルだが、ぺリグリン神父という弁の立つ神父の講釈が際立っているように思われた。以下引用。

 

「・・・火星の世界に、もしかりに新しい五感や、器官や、われらには思いもよらぬ透明な手足などが存在するとすれば、そこには五つの新しい罪がありはしないだろうか」[i]

 

9 今夜限り世界が

 

これもお気に入りの作品の一つ。世界滅亡前のある夫婦の一夜についての話。以上のようにあらすじはきわめてシンプルで話としても短いのだが、終末においても変わらぬ日常が描かれており、その描かれかたがとてもよかったように思われた。以下引用

 

「水道の蛇口がちゃんとしまっていなかったの」と、妻は言った。

なぜか突然おかしくなって、夫は笑い出した。

妻も自分のしたことがこっけいだと気付いて、夫といっしょになって笑った。[ii]

 

ここでは、終末を前にして、明日のための生活というものが実質的な意味をなさなくなった世界においても、なお普段のように振る舞う姿が描かれていますが、ここでの妙味はそのことが一緒になって笑う夫婦から間接的に描かれていることであるように思われました。また、ここから緩やかにフェードアウトを迎えるところも踏まえて、とても印象的で好きな場面です。

 

10 亡命者たち

 

宇宙船の乗組員たちは突然原因不明の痛みに見舞われるも、目的の星を目指すという話。目的の星では焚書指定された書物の著者らが暮らしており、宇宙船が着陸することを防ごうと奔走するなど寓話としてのテイストが強い作品でした。

 

11 日付のない夜と朝

 

宇宙船の乗組員の一人が発狂してしまう話。ヒッチコックの主張自体はどこかで目にしたことがあるようなものでそれ自体に新鮮さは感じられなかったものの、宇宙船を舞台にこの種の悩みが取り上げられているところは面白いと思いました。

 

12 狐と森

 

戦時下にある未来から時間遡行してきた夫婦が何とか追っての手を免れようと奮闘する話。

過酷な未来から時間遡行してきた夫婦の視点を中心に描かれていることもあって、その時代の文化が輝かしいものとして描かれており、過去の文化への郷愁のようなものが通底しているように思わせられた作品でした。

 

13 訪問者

 

病に冒され、地球から別の星への移住を余儀なくされた人々のもとに不可思議な能力を備えた男が訪れる話。各々が自身の利益を求めるあまりに協同することが出来ず、その結果求めていたものが失われてしまうというオチで教訓性が色濃く出ているように思われました。

 

14 コンクリート・ミキサー

 

侵略を目的に火星から地球に発った人々は現地で思わぬ歓待を受けることになり、後に・・・という話。これもテクノロジー批判の要素が見られる作品であるように思われました。

 

15 マリオネット株式会社

 

本人の身代わりとして動くマリオネットについての話。道具を使用する側と使用される側の関係が転倒するという筋は「草原」を思い起こさせるところがあった。

 

16 町

 

宇宙船がある星に降り立つも、降り立ったさきの町が実は人類に滅ぼされた種族が作り上げたものであったという話。本作品に収録されている短編のなかでは最もホラーテイストが強いように思わされた一作。人間が別の何かに作り替えられていくシーンはとりわけ印象的でした。

 

17 ゼロ・アワー

 

大人たちが子どもたちのあいだで流行る遊びに違和感を覚えるも、そのことを問題としなかったがために致命的な結末を迎えるという話。これもホラーテイストが強い作品でした。

 

18 ロケット

 

これもお気に入りの作品の一つ。テクノロジーの発展に伴い、宇宙旅行が可能となるも費用の問題から家族での旅行は厳しいという状況をある種の詐術で解消する話。資金の不足という現実的な問題を模造ロケットで解消する。客観的に見れば、そこで採られる方策は詐術であるが、子供たちが得た楽しさは本当であるという図式が印象的な作品。抒情的な筆致が強く出ている作品であるようにも思われました。

 

4 総括

 

いずれの短編も良かったように思われました。なかでも「万華鏡」「今夜限り世界が」「ロケット」の三作品はお気に入りと言える作品です。氏の作品では次に『火星年代記』を読み進めたい。

 

                                            

 

 

[i] レイ・ブラッドベリ『刺青の男』p176

[ii] レイ・ブラッドベリ『刺青の男』p215

『華氏451度』感想

前書き

この記事にはネタバレが含まれています。

先日『華氏451度』を読み終えたので、今回は自分がこの作品を読み進めるなかで印象的であったことを中心にまとめていきたいと思います。

以下では本題に移る前にまず簡単なあらすじの確認から始めます。

 

あらすじ

 

指定された書物の焼却を仕事とする焚書官のモンターグは、ある日の帰路にてクラリスという名前の少女と出会い、以降彼女と交流を重ねる過程で自身の置かれている現状に徐々に疑問を抱き始める。そして、モンターグは好奇心から何冊かの本を読み進めていくことになり、やがてはその行動が彼の環境を大きく変えることとなる・・・

 

舞台はテレビやラジオなどのメディアが主流なものとして台頭している社会で、指定された書物は所持することを禁止されており、所持が発覚し次第焚書官がそれらの書物を焼却するというシステムが成立していることから、メディアとしての書物はすっかり後景に退いています。

 

以上が大まかなあらすじとなります。以下では印象的であったことをいくつかのトピックに分けて確認していきます。

 

1コミュニケーションの様態の変化

 

モンターグにはミルドレッドという名前の妻がおり、彼女はラウンジ壁と巻貝という二つのメディアに執心しています。そして、ラウンジ壁とラジオはそれぞれがテレビとラジオに相当するもので、作中の描写(以下引用)から彼女が日頃よりそれらのメディアに親しんでいることが伺えます。

 

 

巻貝で十年の訓練を積んでいるので、ミルドレッドは読唇術のエキスパートである。[i]

 

 

印象的であった点は、彼女とのコミュニケーションが、身近にいながらも意識は別の方向を向いているという点から一方向的なものとして描かれている点にありました。

そのような点はモンターグにも意識されていて、いくつかの描写(以下引用)からそれが伺えます。

 

 

さて、そのあたりを考えだすと、そもそもミルドレッドと自分とのあいだには壁がある。文字通りの壁、一枚どころか、いまや三枚だ![ii]

 

 

 

「もう誰もぼくの話など聞いてくれません。壁に向かってはしゃべれない。向こうがぼくに向かってわめくだけですからね。妻とも話せない。妻は壁の言うことしか耳に入らないんです。」[iii]

 

 

以上の二つの描写に見られるように、モンターグは彼女とのコミュニケーションが一方向的なものであることを意識しています、そして、このようなコミュニケーションの様態の端緒にラウンジ壁や巻貝などのメディアが台頭していることが位置付けられているように思われました。

 

2書物の位置付けについて

 

クラリスとの出会いを契機に現状に疑問を抱くようになったモンターグは、やがて書物に触れるようになるのですが、そのような彼が書物に寄せる思いは以下のような箇所に現れているように思われます。

 

 

「・・・だから、本が助けになるかもしれないと思ったんです。」[iv]

 

 

モンターグは、それまでに現状に疑問を抱くことのなかった自分が書物に触れることで新しい視座を得ることができると期待している節があり、そのような彼は書物のことをある意味で啓発的なものと見なしているように思われます(そして、このような彼の意識は後に妻の知人に詩を朗読することで彼女たちの意識を改革せしめんとするシーンに現れているように思われます。)ですが、このように述べる彼にフェーバーという教授は以下のように返答します。

 

「・・・書物には魔術的なところなど微塵もない。」[v]

 

ここでは、モンターグが書物に寄せている期待が否定されています。そして、本作品では書物が禁止された社会で書物に触れていく焚書官を視点に話が展開されていきながらも、先一連の描写から書物を過信することの危うさについても描かれています。また、このことは前述したラウンジ壁(テレビ)や巻貝(ラジオ)によるコミュニケーションの様態の変化が描かれており、それらのメディアがある意味批判的に描かれていることも踏まえると、本というメディアをする過信ことの危うさについても触れられているという点で巧妙なバランスであるように思われました。

 

総括

著者の名前自体は知っているものの過去に氏の著作に触れた経験がなく、『華氏451度』が初めて触れる作品でしたが、抒情的な筆致が印象的な作品でもありました。氏の短編集にも触れてみたいので、今後は『刺青の男』か『太陽の黄金の林檎』を読み進めたい。

 

 

 

[i] レイ・ブラッドベリ華氏451度』p33

[ii] レイ・ブラッドベリ華氏451度』p75

[iii] レイ・ブラッドベリ華氏451度』p137

[iv] レイ・ブラッドベリ華氏451度』p138

[v] レイ・ブラッドベリ華氏451度』p138

 

『きっと、澄みわたる朝色よりも、』感想

 

前書き

 この記事にはネタバレが含まれています

きっと、澄みわたる朝色よりも、』では、疎遠となってしまった幼馴染らが関係を再構築しつつ、学園祭の作品制作に取り組むという筋立てと学園祭の終了後に学園に「病」が蔓延し、そのなかで彼らがどのように振る舞うのかという二つの筋立てがあるように思われます。当記事は、はじめに彼らの関係への推移とその背景がどのように描かれているかを中心に確認し、次に後者の筋立てに認められるキーフレーズ、「優しさ」がどのように描かれているかについての確認を進めるという構成とります。

また『きっと、澄みわたる朝色よりも、』は四つのパートで構成されていて、各パートを終える毎に次のパートが追加されていく形式がとられています。また、各パートにはそれぞれ異なる表題が割り振られていますが、便宜上それぞれのパートを①②③④と表記します。

 

あらすじ

はじめに、大まかなあらすじを確認するところから始めます。

 

芸術家を志望する学生が集う名門として夢見鳥学園に途中入学した崇笹丸(以下笹丸)は、そこで三人の幼馴染と再会することとなる。笹丸は家庭の事情で幼馴染の三人と距離を置かざるをえなくなって以来、幼馴染の一人、与神ひよ(以下ひよ)と文通を続けていた。そして、送られてきた手紙のなかに皆も夢見鳥学園に進学しており、再会できることを心待ちにしているという旨が書かれていたことから、笹丸もまた再会の日を心待ちにしていた。しかし、再会を果たした彼女たちはひよを除き、それぞれがぎこちない態度をとる。笹丸はそのことに少なからぬショックを受けるも、この学園で彼女たちと関係を再び築きあげることを決意する。そして、学園祭での作品制作に意識を傾けていく。

 

以上が、OP部分までのあらすじになります。そして、ここからは学園祭での作品制作を中心に彼女たちとの関係性の推移が描かれていくこととなります。次にそちらについてもあらすじを纏めますと

 

例年、学園祭ではクラス単位で作品制作に取り組むこととなっており、笹丸たちが所属する赤組もその慣例に従うはずであったが、ぎこちない態度をとっていた彼女たちは笹丸ら(ひよ・笹丸)とは別々に作品制作に取り組むと宣言する。笹丸らは、二人ながらも日々作品制作に取り組み続け、その姿勢に感化された彼女たちも笹丸らの作品制作に協力する姿勢を見せていき、ぎこちなさがあった四人の関係も良好となっていく。そのようななかで樫春告(以下春告)とのふとした会話のなかにあった「」という言葉から、笹丸は夢乃蘭(以下蘭)のことを意識し始める。そして、作品制作の進行も順調であるかのように思われたが、期日の直前に笹丸は作品のパーツが必要数に達していないことに気付く。そのミスは自身の数え違いによるもので負い目のある笹丸は残りのパーツの制作に尽力する。また、笹丸の異変に気が付いた蘭も作品制作に助力するも、期日には間に合わずに彼女たちの作品制作は失敗に終わった。

 

前述した①のあらすじに見られるように、①では「学園祭の作品制作」と「幼馴染との関係性の推移」という二つの事柄を中心に話が展開されていきます。そこで二つの事柄が作中でどのように描かれているかを確認するにあたって、まず笹丸と三人の幼馴染は過去にどのような経緯で友人となるにいたったのか、また彼らが云うところの「四君子」が成立した経緯を整理することから始めます。

 

はじめに、彼らがどのような経緯で友人なるに至ったかについてですが、その経緯には笹丸とひよのそれぞれが抱えていた事情が大きく関わってくるため、それについての簡潔な確認から始めます。

 

笹丸の実家はかつて高名な家系であったが、現在では衰退の一途を辿っているという背景があります。そのような背景があるなかで、笹丸の父親は崇家が衰退の一途を辿っているという事実を許容出来ずにいて、あわよくば返り咲こうと考えています。そして、この父親に関わることとして、笹丸は幼少期から父親による虐待を受けていて(作中で言及されている例ですと稽古の名目で暴力を受けるなどが挙げられます。)そのなかで「お前が悪いんだ」といった謗りを受けていたという過去があります。そのような環境下に日常的に置かれていたこともあって、当時の彼は自分が悪い子で学校にいる他の子たちは良い子である。そして悪い子の自分が良い子の皆と関わるようなことはあってはならないと考えていました。この考えの根幹は彼が悪い子を黒、良い子を白と色で形容しているところに顕著に現れているように思われます。つまり、朱に交われば赤くなるにあるように黒(悪い子)の自分と関わることで白(良い子)の皆も黒(悪い子)になってしまうことを危惧しており、そのために皆と関わることを避けていたと言えるでしょう。ですが、笹丸は自分が他の皆に関わってはならないと自身を戒めながらも皆と関わりあうこと、ひいては友達になることを希求していました。このような意識は以下の図にある一連のセリフに顕著に現れています。

 

f:id:submoon01:20180321135240p:plain

 

 そして、このような意識こそが後にひよと笹丸が友人となる契機となるのですが、それに言及する前にひよの抱えていた事情についても確認しておきたいと思います。

 

まず、ひよの実家は医師の家系で医師としての方針の違いから与神家に敵対的な態度をとる肆則家がいるという背景があります。そして、ひよが抱える事情にはこの肆則家が間接的に関わっています。具体的に言えば、彼女の通う学校のクラスメイトのなかに肆則家の娘、肆則のりかと肆則きよがおり、彼女たちは親が与神家にとる敵対的な態度から与神家の人間は悪い人間であると判断し、日常的にひよをいじめていました。そのような日々が続くなか、ひよは彼女たちからのいじめに嫌悪感を覚えつつもそれに抵抗することが出来ず、また家の人間に心配をかけたくないという思いから学校に通い続ける日々が続いていました。

 

ここまでが当時のひよが抱えていた事情についての大まかな内容となります。そして、このような状況下で笹丸がいじめの現場に居合わせたことをきっかけに話が展開されていきます。前述したように、当時の笹丸は悪い子/良い子という判断基準を持ち合わせていて、そのような判断基準を持つ彼からすると良い子であるはずのひよがいじめられている(罰を受けている)という事実はひどく受け入れがたいものでした。そのため、笹丸は肆則姉妹に「そういう罰の対象は僕です」と彼女へのいじめを止めるように進言しました。そして、このことをきっかけに笹丸とひよの交流が始まります。ひよにとって、笹丸はその場のいじめを止めてくれた恩人で以降の彼女は笹丸と友達になろうと積極的に交流を図ります。ですが、笹丸は自分が他の皆に関わってはならないと自身を戒めていたこともあり、彼女からの接触に対しては距離を置いた態度を保ち続けていました。そのような日々が続く中のある日にひよは笹丸に友達になることを提案します。当然、ひよと深く関わることがないように自身を戒めていた笹丸はその提案を拒もうとするも、ひよの言葉から友達が欲しいという抑圧されていた思いが発露します。そして、二人は友達となります。

 

長くなりましたが、ここまでがひよと笹丸の二人が友達となるまでの経緯になります。次いで、春告と蘭が二人の友達となるまでの経緯をまとめたいと思います。

 

当時の春告は笹丸らの一年上の学年に属しており、そこでは他の生徒からも一目置かれるような存在でした(作中ではボスと形容されています)そして、そのような立場にあった春告は一つ下の学年のひよがいじめを受けているという話を耳にしていました。ですが、春告は肆則姉妹らが学園長の娘であるという話も耳にいれており、学園長の娘に反抗的な態度をとることで今の立場を失うことになるかもしれないことを危惧して問題の解決に踏み出せずにいました。そのようななかで笹丸がひよへのいじめを止めたことに感銘を受け、それ以前から交友関係にあった蘭とともに笹丸らのもとに赴き、彼らと友達となりました。

 

以上が笹丸、蘭、ひよ、春告の四人が友達となるまでの大まかな経緯となります。次に「四君子」が成立する経緯についての確認に移ります。

 

まず、四君子とは「デジタル大辞泉」によれば

蘭(らん)のこと。君子をたたえるものとして、東洋画の画題とされる」

という意味で本作品においてもこれと同様の意味で用いられています。そして彼らが「四君子」となるにいたった経緯を確認すると、ある日春告の提案で彼らは山にピクニックへ行くこととなり、そこで昼食をとっている折にひよが口にした言葉がきっかけであるとされています。ひよによれば、蘭(あららぎ)は蘭(らん)と同じ字の名前を有しており、春告は梅の別称である春告草と関わりがある名前を有しているといったようにそれぞれの名前は四君子の草木との共通点が認められると主張します。

そして、当時の笹丸は彼女たちとの交流を重ねるなかで徐々に明るさを獲得しつつあったものの、未だに自身がそのような場にいることにある種の不安を抱いているという状態にありました。そのようななかでひよが口にした言葉は、皆との共通点があると思わせることで笹丸の不安の一端を解消することとなります。ですが、笹丸自身は笹に関わりのある名前を持つ自分は竹とは関わりのないもので、皆の優しさで竹に位置に据えてもらったと考えます。このことは、彼の過去の経験からくる自己評価の低さのよるところが大きいように思われます。そして、ここに見られるような自己評価の低さは現在の彼の行動のいくらかを規定しているところがあり、後々にそのことはある問題が発生することの一端となるのですが、過去の経緯についての確認はここで区切らせていただきます。

 

ひとまず、ここまでの流れを受けたうえで過去のいきさつを確認するにいたった前提に話を戻しますと、パート①以降では(とりわけ①―②)では「幼馴染との関係性の推移」が話の軸の一つとしてあります。以降ではそれについての確認を中心に進めていきますが、そちらに移る前にここまでの要点を確認しますと「幼少期の笹丸は良い子/悪い子という基準を有しており、そのために人と深く交流しないように自身に戒めていた」ことと「笹丸は紛い物の竹である自分は、皆の優しさのおかげで四君子の竹の位置に置かれていると考えている。また、この考えは彼自身の自己評価の低さによるところがある」という二点が挙げられます。このことは、後に取り上げる「幼馴染との関係性の推移」という軸のもとで発生する問題にも関わってくることとなります。

 

さて、次は①―②における「幼馴染との関係性の推移」とそこで発生する問題について触れていきます。まず、①②のいずれにおいても当初は蘭、春告との関係は良好なものではなく、それぞれの経緯は異なるものの彼女たちとの関係性が後々に回復していくという筋立ては共通しています。そして、上述したような過去の経緯についての描写は笹丸が彼女たちとの関係性を回復するべく奮起するという一連の行動に説得力を付与しているように思われます。笹丸は彼女たちと友達になる以前から友達を希求していたという背景があり、以後はそれがかけがえのないものであるからこそ、それを失う・損なうことに強い忌避感を持っていることが過去についての描写などから読み取れます。

 

 f:id:submoon01:20180321135719p:plain

 

f:id:submoon01:20180321213004p:plain

 

上の図における「決して譲れない存在となった」の記述などから、彼は「四君子」という関係性を過去・現在のいずれにおいても重要視していることが読み取れます。このように、彼が「四君子」にかける思いはいくつかの場面で繰り返し言及されており、彼の一連の行動の動機を補強しているように思われました。では、他の四君子についてはどうかと言えば、ひよについては①②ともに学園祭の作品制作を進めつつも、蘭と春告との関係性を回復しようと奔走する笹丸を助けようと努めるというスタンスは共通しており、そのようにひよが笹丸に献身的な態度をとる動機については笹丸と同様に過去・現在の描写のなかで描かれているように思われました。次に当初は笹丸にぎこちない態度をとっていた蘭と春告についてですが、幼少期には笹丸と親しい関係にあった彼女たちがそのような態度をとっていた動機についても蘭の動機は①で春告のそれは②で明示されます。そのため、「幼馴染との関係性の推移」という軸にある幼馴染との関係の回復という筋立ては回想シーンも含む各々の心情についての描写によって補強されているように思われました。

 

次に前述しました「幼馴染との関係性の推移」という軸で発生する問題についての確認に移りたいと思います。まず、そこで発生する問題を具体的に述べるならば「幼馴染という関係から恋人関係への推移」であると言えるでしょう。この問題については①②で異なる展開で描かれているものの、いずれにおいても笹丸の性分が問題の根本に深く関わっています。そして、ここにおいても先と同様に回想シーンも含む各々の心情の描写によって、説得力が付与されているように思われました。とりわけ、笹丸の心情や彼の行動原理についての掘り下げは抜きんでているように思われるところがあるものの、一方で蘭の行動原理についての掘り下げはやや不足しているように思われるところも見られました。以降では、いくつかの描写を例に上げつつ、それがどのようにして「幼馴染という関係から恋人関係への推移」における個々人の行動に説得力を付与しているか、また描写が不足しているように思われた点についての確認を進めていきたいと思います。

 

まず、「幼馴染という関係から恋人関係への推移」がどのような意味で問題(解決すべき事柄)として描かれているかについての確認から始めます。そこで問題とされていることはある意味で幼馴染という関係性があるために恋人関係への推移が達成されないことであるように思われます。ですが、各々にとっての問題の在り方が異なって描かれていることもあるため、順番に確認を進めていきます。

 

第一に笹丸にとっての問題を確認すると、鈍感さと強固な仲間意識の二点が挙げられるように思われます。前者の鈍感さについては、自身に向けられる好意や好意からくる行動の背景に想像が及ばないといった点から「幼馴染という関係から恋人関係への推移」においては解消される問題として描かれているところがあります。そして、後者の仲間意識についてはそれを大事に思うあまりに個人としての仲間の思いをあまり見ていないといったように描かれています。この点については以下の図にあるように蘭から指摘を受けています。

 

f:id:submoon01:20180321155726p:plain

 

では、鈍感さと強固な仲間意識はどのように描かれているかについての確認に移ります。

先に述べましたように、彼の鈍感さは前述したような形で描かれていますがその背景には過去の経験からくる自己評価の低さと相対的な他者評価の高さがあるように思われます。前者の自己評価の低さについては先に⑵で言及したように過去の彼にも認められたもので、それは現在においてもいくつかの描写から認められます。

 

f:id:submoon01:20180321162856p:plain

 

上の一例での蘭が指摘とそれに対しての笹丸の応答に見られるように彼は自己を低く評価しており、それは表面的には卑屈さとしてではなく過ぎた謙虚さとして描かれているところがあります。そして、彼は自己を低く評価していることから自身に好意が向けられることを前提としていないがために鈍感と形容されるような振る舞いをなす傾向にあると言えるでしょう。

 

次に後者の他者評価の高さについてですが、これはひよと笹丸が交わす問答に認められます。問答とは何かと言えば、これは幼少期に本(百科全書に類するようなもの?)を読んでいることで多くの知識を有しているものの、人とのコミュニケーションの方法に不器用であった笹丸に対し、会話のフックを作れるようにひよが始めたとされています。そして作中でひよと笹丸が雑学についての問答を交わすシーンは随所で見られますが、そのなかの一つに笹丸から投げかけられた問答にひよが対応できずにいて、その後ひよが応答できなかった事柄を図書館で調べるというシーンがあります。このシーンに見られるようにひよは笹丸との問答をこなせるように陰で知識を蓄えるという努力を続けているのですが、そのことに笹丸は気付いていないという状況が認められます。そして、この状況は他者評価の高さによるところが大きいように思われます。何故ならば、他者評価が高いという前提から相手が至らない・不足しているがために努力するという状況の想定が抜け落ちてしまい、そのために気付かないという鈍感と形容できるような振る舞いが生じるからです。

 

以上の点から、彼の鈍感さはその背景にある自己評価の低さと他者評価の高さという二点から描かれていると言えるでしょう。

 

次に強固な仲間意識についてですが、これについての描写は⑶で確認したように彼が彼女たちとの関係を回復しようとする動機と共通するところで、そのために「幼馴染との関係性の推移」では彼の一例の行動を動機づける強固なものとして描かれていたものが、「幼馴染という関係から恋人関係への推移」ではある意味で解決される問題として描かれています。ですが、これは彼のそのような意識が否定されるべきものとしてではなく、好意からくる行いが裏目に出ることもあるという形で描かれているように思われました(これについては後程言及する「優しさ」の主題に通底するところがあります)

 

長くなりましたが、ここまでが「幼馴染という関係から恋人関係への推移」では笹丸にとっての問題として描かれている二点についての確認となります。また、ここで確認した問題については①-②でそれらが解消される過程も丁寧に描かれていて(提起については繰り返し描かれていることもあり、くどいとも言えるかもしれませんが)笹丸にとっての問題の提起と解消の過程は総合的によく描かれているように思われました。そして、ひよにとっての問題はそのように鈍感である笹丸が自身の気持ちに気付かないというところと重なるところがあり、そのために笹丸にとっての問題の解消の過程と並行して彼女のそれも描かれているように思われました。

 

第二に、蘭についての問題を確認すると自身の気持ちへの自身の無さと周囲を気遣うあまりに自身の気持ちを押し殺すことという二点が挙げられるように思われます。前者・後者ともに以下の図に顕著に現れています。

 

f:id:submoon01:20180321185756p:plain

 

f:id:submoon01:20180321190046p:plain

 

ここにあるように蘭は三人との関係に影響を及ぼしうることを懸念したこととひよの気持ちに自身のそれは及ばないという自身の無さから自身の気持ちを押し殺していることが伺えます。そして、「幼馴染という関係から恋人関係への推移」という軸においては、彼女が以上の二点とどのように折り合いをつけるかが問題として設定されているところがあるのですが、以下ではそれらがどのように描かれているかについての確認を進めていきます。

 

まず、前者については①のある場面で蘭が笹丸に自身の胸中を痛切に吐露するというシーンに顕著に現れているため、そちらを参照させていただきます。

 

 

f:id:submoon01:20180321190235p:plain

 

ここにあるように、彼女は自身の思いがひよの思いに勝っているかどうかという点を強く意識しています。また、彼女が「でもそんな目を背けたあたしじゃ笹丸ちゃんと一緒にいられない」と言うようにそのような意識に欺瞞的であることも出来ずにいる状態にあり、自縄自縛とも言えるような状態に陥っているところがあります。そして、このような描写から彼女の抱える自身の無さには説得力が付与されているように思われます。一方で後者については彼女がそのように振る舞っているという事実からそのことが描かれているものの、何故そのように振る舞うのかという動機については明確に描かれていないように思われました。そして、②で彼女の下す結論が自身の思いを諦めることであることを踏まえると、前者については先に述べた点から説得力が付与されているようい思われるものの、後者についてはその動機についての描写が欠けていることからやや説得力が欠けているように思われました。

 

(5)「優しさ」について

 

さて、次は前書きで書いたように本作品でしばしば取り上げられる「優しさ」がどのように描かれているかについての確認を進めていきます。

 

まず、この「優しさ」という語句については前述したように作品の随所で用いられているため、いくつかの例を取り上げた後にその語句が概ねどのような意味で用いられているかという輪郭を画定する作業から始めます。

 

f:id:submoon01:20180321211239p:plain

 

第一の例でここでは優しさがどのようなものであるかが抽象的に描かれています。「誰かを思うことによって」「誰かの為に在ることによって」という文が続いた後に「誰かに優しくするほどに」と続いていることから、誰かを思うこと(ここでは配慮するといった意味で用いられているように思われます。)誰かの為に在ることが優しくすることの例として挙げられると言えるでしょう。ですが、これでは抽象的に過ぎるのでもう一つ例を取り上げます。

 

f:id:submoon01:20180321211357p:plain

 

f:id:submoon01:20180321211432p:plain

 

第二の例では、具体例を交えつつ「甘さ」と対比する形で「優しさ」についての言及がなされています。ここで挙げられている例から「甘さ」は自己の保身が前提とされているような行為一般のことを指しているように思われ、また「甘さ」との対比関係から考えるならば「優しさ」は自己の保身が達成されないとしても相手のことを思ってなされるような行為一般であるように思われます。

 

二つの例からすると、「甘さ」「優しさ」という対比関係から「優しさ」は自己保身が達成されないとしても相手のことを思ってなされるような行為一般という意味で用いられているように思われます。

 

次に、その「優しさ」が作品中でどのように描かれているかについての確認に移ります。そして、これには先に触れた「この病は・・・誰かに優しくするほどに悪化する」という件にある病と関わってくるところがあります。まず、「病」とはどのようなものであるかについて簡単に確認すると、②の学園祭の作品制作後に蔓延し始めたもので初期症状としては普段の振る舞いから考えられないような言動や振る舞いを見せるようになるというもので(罹患者はそのような言動や振る舞いを行うことへの衝動に駆られるという症状によるもので、ある程度は意志によってその症状を抑制できることが示されています)更に症状すると、衝動が発生する頻度が上昇し衝動に反した場合に身体に痛みが走るようになります。

では、この病がどのような形で「優しさ」の描かれ方に関わっているかについてですが、優しくするほどに痛みが生じる病を媒介にそれぞれが確かに痛みを感じているという事実から「優しさ」の確かさが描かれているように思われました。具体的に述べるならば、「優しさ」と「甘さ」は先に確認した意味からすると自己保身の前提の有無という点から区別できますが、実際にどこまでが「甘さ」でどこまでが「優しさ」であるかという線引きをすることは困難であるようにも思われます。そのなかで、本作品では病に優しくするほどに痛みが生じるという法則性が設定されており、「優しさ」という抽象的な性質に痛みという顕著に現れるものが伴うことで客観性が確保されているところがあるように思われました。総括すると、この病を媒介に「優しさ」に客観性が付与することでそれが確かなものとして描かれているように思われました。

 ですが、本作品での「優しさ」の描かれ方でとりわけ印象的であった点は、それが確かな形で描かれているということではなく、「優しさ」それ自体と正/誤の基準が切り離されているところにありました。詳細としては、先に述べたように本作品では随所で「優しさ」についての言及がなされている場面がありますが、そのなかの一つに以下のようなものがあります。

 

f:id:submoon01:20180321211547p:plain

 

 ここでは人が「優しさ」を有しているとしても、「優しさ」からくる行動が裏目にでることがあるというケースが挙げられています。この例の他にも⑶で挙げたような笹丸の行動が裏目に出たという例もこれに類するように思われます。そして、これらの例から「優しさ」からくる行動が人を傷つけることもあり、その行動の正しさが必ずしも保証されるわけではないと言えるのではないでしょうか。

 

しかし「優しさ」それ自体は正/誤の基準から切り離されているものの、優しくあることがどのような形をとるかについては示唆されているように思われます。それは以下の例に見られます。

 

f:id:submoon01:20180321212436p:plain

 

f:id:submoon01:20180321212354p:plain

 

これは幼少期の笹丸が親への思いからイジメを行っていた姉妹にイジメを止めるように説得していた場面で、ここでの笹丸はある行為が誰かのためを思ってのものだとしてもそれによって生じる悪影響を知ってもなお止めないのならば、それは悪いことであるという理路から二人の説得を試みています。そして、優しくあることはここでの理路に通ずるところがあるように思われます。つまり「優しさ」に可謬性が伴うとしても、そのことに反省的であるか・否かが重要で、本作品で優しくあることはこのような形で示唆されているように思われました(了)

 

(1)コトバンク デジタル大辞泉(以下リンク)  

  https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%90%9B%E5%AD%90-72904

『君の名残は静かに揺れて』感想

1概要

 

本作品は『Flyable Heart』のFDにあたるものですが、『Flyable Heart』未読であっても本作品の展開を概ね理解できるような作りとなっていました。

 

 2あらすじ

 

ある日、葛城晶(以下晶)は秀でた才能を有する人物を擁することで知られている「私立鳳繚蘭学園」(以下鳳繚蘭)から送付された書類を受け取る。書類の内容は、鳳繚蘭についての資料と晶が鳳繚蘭に入学することを許可されたという旨を伝えるものであった。食事に並々ならぬ熱意を注ぐ晶は送付された資料にあった食堂についての記載を見て入学を決意し、鳳繚蘭へ向かうのであった。

 鳳繚蘭へ向かう最中、大橋にて晶は物憂げな雰囲気を醸し出す少女、白鷺茉百合(以下茉百合)と出会う。彼女は鳳繚蘭の生徒会にて副会長を務めており、生徒会副会長としての彼女は誰に対しても分け隔てなく接する優しい人物であった。生徒会特別援助委員に任命された晶は、生徒会の仕事をこなすなかで徐々に茉百合に惹かれていく。だが、誰に対しても分け隔てなく接する彼女の在り方には過去のある出来事が深く根差していた。

 

3雑感

 

先のあらすじにあるように晶は生徒会の仕事をこなすなかで茉百合に惹かれ、交流を深めていきます。そして、その過程で過去にあった出来事が徐々に明かされていくといった作りがとられています。

 本作品において、印象的であった点として過去にあった出来事が茉百合にもたらした精神的な変化が解消される過程の描かれ方が挙げられます。茉百合は過去にあった出来事から他人と親密な関係を築くことに一線を引いており、誰に対しても分け隔てなく接するという態度をとっていました。換言するならば、過去の経験から誰かと特別な関係を築くことを忌避していたとも言えます。しかしながら後に彼女は晶と交流を深め、恋人になるのですが、これは誰に対しても分け隔てなく接するという態度を改めることを意味しているととることもでき、晶と茉百合が結ばれるまでの過程は過去の経験が解消される過程を描いているとも言えます。

 しかし、とりわけ印象的であったことは茉百合の過去の問題の解消を恋人関係の成立から描くだけではなく、彼女自身の在り方の変化を通して描いているという点にありました。

 恋人となった晶と茉百合は交際関係を認めてもらうことを目的に白鷺家の屋敷に数日間滞在することとなります。そのなかで茉百合が過去の経験から精神的な負荷を受けていて、そのことから特別な関係を築くことを忌避していたことを知る人物から、今回の交際も後々に茉百合に精神的な負荷をもたらしうるのではないかと問い詰められることとなります。

奇しくも、晶は茉百合の過去の出来事に関わりがある人物と縁があり、そのような自身が彼女と特別な関係を築くことにわずかながらのしこりを残していました。そのため、晶は問いかけに答えることに窮してしまいます。

ですが、茉百合はその問いかけに「大事な人を失うことがあったとしても、たとえ一人ぼっちになったとしても、私は自分であり続けるわ」と応答します。

忌避していた特別な関係を築くのみならず、過去にあったような大切な人との離別を再び経験することとなったとしても自身の在り方は揺るがないと他ならぬ茉百合自身が主張する。彼女の在り方の変化によって、彼女自身の過去の問題のみならず晶のしこりも解消されたという描かれ方が印象的でした。

 

他にも、白鷺家の屋敷に滞在するなかで茉百合の出自についての秘密が明かされていき、その過程で描かれていく白鷺家の家人の思いも本作品の見所であるように思われました。

 

総評として、FDでありながら一個の作品として完結していて、コンパクトに纏まっているように思われました。

 

 

当ブログについて

はじめまして。仔月と申します。

主にプレイしたエロゲの所感を記事として書き残すことを目的に当ブログを開設いたしました。他にも、読み終えた本の所感なども書き残すことがあるかもしれませんが、開設の目的にあるように当面はエロゲについての感想が主となると思われます。また、感想には作品についてのネタバレが含まれているため、ご注意ください。

どうぞよろしくお願いします。