『なまづま』感想

 

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1 前書き

 

今回は『なまづま』を読み終えたということで、『なまづま』についての所感を以下に纏めていきたいと思います。また、以下の内容にはネタバレが含まれております。ご注意ください。

 

2 あらすじ

 

ヌメリヒトモドキという生物が繁殖を始め、幾つかの年月が経過した後の日本では人々はそれらの存在に嫌悪感を覚えながらも、それが身近にいるという異常な事態に順応しつつあった。ヌメリヒトモドキの研究員の私は、妻を亡くしてからは茫然自失の状態にあった。しかし、ヌメリヒトモドキには人間の感情や記憶を習得する能力が備わっていることを知ったことで、私はある計画を実行に移すことになる。それはヌメリヒトモドキに妻の遺骸を与えつつ、妻についての思い出を語ることでヌメリヒトモドキのうえに妻の意識を再現しようという試みであった。私は、ヌメリヒトモドキの醜悪さに嫌悪感を覚えつつも、妻の蘇生という目的のためにそれの飼育を始める……

 

以上があらすじとなります。では、所感についての確認に移る前に背景設定の確認に移りたいと思います。

 

まず、ヌメリヒトモドキとは何かについての確認から始めたいと思います。

ヌメリヒトモドキの容貌は個体毎に異なり、ナマコのような姿をしているものもいれば、人間に近い姿をしているものもいます。そして、いずれの個体もぬめつくような体液と悪臭をまとっており、そのことでヌメリヒトモドキは公の場では排除される傾向にあります。また、先に確認しましたようにヌメリヒトモドキは人間の感情や記憶を習得するための能力を有しています。ヌメリヒトモドキは対象についての情報を獲得することでその対象の性格や記憶を習得することができます。もっぱら、それは会話を介することでなされ、私も妻の思い出を語ることで妻の意識の再現を図ります。

 

以上が背景設定についての確認となります。では、次に所感についての確認に移りたいと思います。

 

3 所感

 

ここまでに背景設定についての確認を行いましたが、本作品ではヌメリヒトモドキという生物をフックに対象への愛情が何に由来するかということが描かれているように思われました。以下では、いくつかの描写を例にそのことについての確認を進めていきます。

 

まず、先に確認しましたようにヌメリヒトモドキには人間の感情や記憶を習得するための能力が備わっています。そして、私はヌメリヒトモドキに妻の意識を再現しようとします。当初の私はヌメリヒトモドキに嫌悪感を覚えますが、妻の意識を再現したいという思いを糧にヌメリヒトモドキに妻との思い出を語り続けていきます。時間が経つにつれて、ヌメリヒトモドキの容貌は在りし日の妻の姿に近づいていきますが、それに伴い、私の心境にも変化が訪れます。私は生前の妻を愛しており、その愛の深さのために妻の意識の再現を試みているとも言えるのですが、一方で生前の妻の精神の不安定さにある種の不満も抱いていました。しかし、ヌメリヒトモドキの妻は不完全であるがために生前の妻のように不安定さを有していません。そのため、次第に生前の妻にではなく、ヌメリヒトモドキの妻に惹かれていきます。このことは、対象への愛情はその対象自体に起因するものではなく、その対象への理想像に起因することを示唆しているように思われます。この場合、生前の妻よりもヌメリヒトモドキの妻のほうが私の理想を再現しているがためにそれに惹かれていったと言えます。したがって、本作品ではヌメリヒトモドキという生物を媒介に理想と現実のギャップ、ひいては対象への愛情はそれが理想像にどの程度合致しているかによることを浮き彫りにしていると言えるのではないでしょうか。

 

次に、カンナミ研究員という人物を例に先の事柄がどのように反復されているかを確認していきたいと思います。

 

まず、カンナミ研究員とは私と同一の研究所に所属している人物で、私に好意を寄せています。そして、妻を亡くしてからは茫然自失の私を励ますためにあれこれと手を尽くします。しかし、ここで重要である点はカンナミ研究員にとっての私と私の自己認識のあいだに隔たりがあることです。にもかかわらず、カンナミ研究員と私のコミュニケーションは成功しているように思われます。そして、このことは私の性格に由来するところがあります。本作品の随所に書かれているように、私は誰かの誘いや勧めを断ることが苦手な性質であり、そのために誰かの判断に順応するような対応をとりがちです。カンナミ研究員は私を尊敬に値するような研究員であると見なしており、そのことを前提に彼とコミュニケーションをとります。しかし、彼女の認識とは異なり、彼自身は自分のことを尊敬に値するような人物であるとは考えていません。このように認識の隔たりがあるにもかかわらず、先に確認しましたように彼には誰かの判断に順応しがちなところがあるため、カンナミ研究員の想定するような私に沿うように対応をとります。だからこそ、両者のコミュニケーションは一見すると上手くいっているように見えるのだと思います。そして、このような関係性は私とヌメリヒトモドキの関係性と同様に愛情は対象が理想像にどの程度合致しているかに起因することを示唆しているように思われます。何故ならば、私の対応はある意味では相手の理想像を再現するようなもので、その点を加味すると彼女が私に思いを寄せていることもそのことに起因するように思われるからです。

 

以上の二点から、本作品ではヌメリヒトモドキと人間という二つのモチーフを経由したうえで対象への愛情はある意味では当人の理想像に起因するということが描かれていると言えるでしょう。そして、このことが、死者の擬似的な蘇生のなかで段々とそのことが浮き彫りにされていくという構成のもとで描かれていたことは非常に巧妙であるように思われました。

 

4 後書き

 

読み始めた時点では文体に冗長さを覚えたものの、読み進める内にそれがヌメリヒトモドキについてのねばつくような描写と上手く作用しているように思われ、次第に気にならなくなりました。なによりも、本作品の主題がとても好みでした。

『ハーモニー』感想

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1 前書き

 

今回は『ハーモニー』を読み終えたということで内容についての所感を以下に纏めていきたいと思います。また、以下の内容にはネタバレが含まれておりますので、ご注意ください。

 

2 あらすじ

 

大災禍の後、人類は相互扶助の精神を基盤とするような社会を築き上げていた。そこでは、あらゆる病が淘汰され、健康であることがある種の価値を有していた。螺旋監察官の霧慧トァンは「生府」の管理下に置かれていない土地の住民との交渉の役目についていた。しかし、ある時に飲酒・喫煙を嗜んでいたことを理由に謹慎処分を下されることになる。そして、トァンは故郷の日本へと帰還し、かつての友人のキアンと再会することになる。しばしの間、トァンはかつての友人との会話に華を咲かせるも、突如、キアンは手元のナイフで自害したのだった。トァンは友人の不審死の謎を解明するために奔走する……

 

以上が『ハーモニー』のあらすじとなります。では、所感の確認に移る前に『ハーモニー』の背景設定の確認に移りたいと思います。

 

以下では背景設定の確認を進めていきます。まず、本作品の社会がどのようなものであるかについての確認から始めたいと思います。

 

先にあらすじで確認しましたように、現在の社会が構築された契機には大災禍というものが深く関わっています。大災禍とは核戦争のことを指しており、前時代に核戦争が終結を迎えた後、地球には放射線が残留したとされています。当然、人体には有害なレベルのものであり、そのような事態を解決するために相互扶助の精神と健康の促進を基盤とするような社会(生府)が形成されました。そして、そこでは一定の年齢になると「watch me」というアプリケーションが身体に導入され、以後はそのアプリケーションが体内のパラメータを監視し、その恒常性が保たれるように様々な提案を使用者に投げかけます。他にも、日々の食事はコンサルタントが提供するものを基準とし、それに沿うようになされることが推奨されています。そのため、そこでは「生府」の方針に忠実であるほどに身体的な特徴(例えば、肥満・痩せ気味などの体型や肌の具合など)は均一なものへと近づく傾向にあります。また、相互扶助の精神からボランティアに積極的に参加することも奨励されています。以上のことから、『ハーモニー』の社会ではアプリケーションやサービスのもとに均一な健康が志向されており、相互扶助の精神からそれぞれが助け合うことが奨励されている社会であると言えるでしょう。

 

次に本作品の主要な人物の一人、霧慧トァンの背景設定についての確認に移りたいと思います。

 

幼少期から、霧慧トァンは「生府」の方針に違和感を覚えていました。そのため、当時は同じような感覚を覚えている子らと親しくしており、社会への反抗心を煮えたぎらせていました。そして、ある時に薬を服用することで自殺を試みるのですが、結果的にトァンは助かってしまいます。以後、トァンは表面上は社会に適合したような姿を見せつつも、水面下では社会への反抗心を燻らせており、学校を出た後に螺旋監察官の仕事に就きます。螺旋監察官とはWHOの一部局であり、その仕事はそれぞれの土地の政府がその住民に健康的で人間的な生活を保障しているかどうかを査察するものであるとされています。このような点から、螺旋監察官の仕事は「生府」の方針の尖兵とも言えるものですが、トァンの目論見はそれに殉じることになく、辺境の地では監視の目が緩いためにアルコールや煙草などの禁制品を入手することが可能であるという点にありました。ですが、先のあらすじにあるようにトァンの目論見は看破され、日本に戻ることを余儀なくされます。

 

以上がトァンの背景設定についての確認となります。

 

それでは、次に所感についての確認に移りたいと思います。

 

3 所感

 

ここまでに背景設定についての確認を行いましたが、本作品では「watch me」などの技術やサービスを媒体に人間が自身の判断の基準を嘱託することとその極北が描かれているように思われました。そのため、以下でははじめに「watch me」などの技術がそれをどのように描いているかを確認した後にその極北についての確認に移りたいと思います。

 

まず、「watch me」とは先に確認しましたように身体の恒常性を保つためのアプリケーションの一種です。そして、ここで重要な点は「watch me」は身体のパラメータを監視するだけではなく、恒常性を保つために使用者に提案を投げかけてくるということです。具体的には、ある人物が会話をしている際に相手の発言に不愉快に思われるようなものが含まれており、そのために感情が刺激され、感情的になった場合に「watch me」はその状態はその場に適切なものではないと提案し、感情を鎮めることを要請します。このように、「watch me」にはどのように振る舞うべきかというような社会的な基準が含まれており、作中の描写では社会の人間はそのことを妥当なことであると受け入れているように思われます。以下、一例

 

watch me に警告されてしまいましたわ。対人上守るべき精神状態の閾値をオーバーしているって」

「ええ、私を内部から見守る視線があるということは、ずいぶんとありがたいことです」[i]

 

そのため、この社会では「watch me」というアプリケーションにそれぞれの判断の基準が嘱託されていると言えるでしょう。

 

次に、サービスについてですが、先に確認しましたようにこの社会では日々の食事はコンサルタントの基準に沿うようになされています。このことも先の例と同じように健康という基準への判断が嘱託されていると言えるでしょう。

 

以上のことから、技術とサービスのそれぞれを媒介に人間が判断の基準を嘱託することが描かれていると言えるでしょう。そして、判断の基準が外部に委託されているということはそれぞれの人の意思が自動化されていることを意味しているように思われます。つまり、判断の基準の嘱託することは自身の意思をそれに沿うようにし、それぞれの場面への対応を自動的なものへとすることを意味するのです。

 

では、判断の基準の嘱託の極北には何があるか。それには人間の自由意思というものが関わってきます。以下ではそのことを中心に確認を進めていきます。

 

まず、ここまでに確認しましたように「watch me」には体内のパラメータを監視する働きがありますが、脳の中はその例外であるとされてきました。そのため、脳はある種の聖域と見なされていたのです。しかし、トァンは不審死の事件を追うなかで実際は脳のパラメータを監視することは技術的に可能になっており、その技術を利用することで人間の精神状態を制御することすらも可能であることを知ります。そのうえ、一連の不審死はその技術によって引き起こされたものであり、全人類にそれが実装されようとしていることも知ります。しかし、ここで重要であることは、当初はこの技術が人間の不完全な精神を統御するために作られたものであるということです。ⅰで確認しましたように、「watch me」は人間の精神のパラメータを監視し、注意を促しますが、当人は注意を促されるまではそのことに気付きません。また、この社会では外部に判断の基準を嘱託することで判断を自動化することが可能となっていますが、どのコンサルタントの判断の基準を採用するかは個人の裁量に任されているように思われます。つまり、判断の自動化はある程度は達成されているものの、部分的には人間の意思が介入するような余地が残されているのです。そして、先の技術はそのような余地を取り除き、ある種のヒューマンエラーを完全に排除するようなものであるように思われます。以上のことから、判断の基準の嘱託とその帰結としての自動化の極北には、人間の自由意思も取り除かれ、それすらも自動化されてしまうということがあるように思われます。

 

このように、『ハーモニー』では技術やサービスを媒介に人間の判断の基準の嘱託とその極北が巧みに描かれているように思われました。そして、このことはある種の「ディストピア」が為政者のみで実現されるのではなく、人々の嘱託の帰結として実現されうることを示唆しているようにも思われました。

 

 

4 後書き

 

数年前に『虐殺器官』を読んだものの、当時にはそれに乗り切れなかったこともあり、しばらくは本作品に着手することはありませんでしたが、初読の印象としてはこちらのほうが読みやすいという印象を抱きました。

 

[i] 『ハーモニー』p142

『あなたのための物語』感想

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1 前書き

 

お久しぶりです。今回は『あなたのための物語』についての所感を纏めていきたいと思います。また、以下の内容にはネタバレが含まれております。ご注意ください。

 

2 あらすじ

 

西暦2083年。ニューロロジカル社のサマンサ・ウォーカーは人工神経制御言語、ITPの開発を進めていた。しかし、開発を進めるなかである問題が浮上してきた。それは感情の平板化と呼ばれるものであった。サマンサは感情の平板化という問題を解決するべく、開発チームを発足し、〈wanna be〉という仮想人格に小説の執筆をさせることで問題解決へのアプローチを試みようとする。そして、開発が進むなかでサマンサの身体に異常が発生する。医者の診断によると、それは自己免疫疾患で完全な治療の見込みはなく、遠くない未来にサマンサの死は確実であることが告げられる。しかし、サマンサはそのような病状下にあっても、ITPの開発の一線に携わることから退こうとはせず、積極的に〈wanna be〉のプロジェクトを推し進めていく・・・

 

以上が冒頭部分のあらすじとなります。以上のあらすじにあるように『あなたのための物語』ではサマンサの病状が進行し、死が近づくなかで〈wanna be〉のプロジェクトが進行されていくというかたちで物語が展開されていきます。

 

では、次に本作品への所感の確認に移る前に本作品の背景設定の確認から始めたいと思います。

 

背景設定の確認(ITPとサマンサの病気について)

 

それでは、以下では『あなたのための物語』の背景設定についての確認を進めていきます。はじめに、人工神経制御言語、ITPとは何かについての確認。次に、サマンサの病気とはどのようなものであるかについての確認。以上の二点の確認を進めていきます。

 

では、ITPについての確認に移る前にITPという技術の前身のNIPについての確認から始めたいと思います。

まず、NIPとは Neuron interface protocol の略称で、ナノサイズの微小なロボットを利用し、脳内に擬似的な神経を形成する技術を指します。例えば、NIPは宇宙での開発の現場などで導入されています、宇宙での事故は労働者に脳細胞の損傷を負わせることがあります。しかし、NIPは開頭手術なしにナノサイズのロボットを駆使することで脳内に擬似的な神経を形成するため、宇宙での事故にも対応することができます。纏めると、NIPはナノサイズのロボットで脳内に擬似的な神経を形成する技術を指し、その技術は宇宙での現場などに導入されてきました。

では、その後身のITPとは何か。ITPとは Image transfer protocol の略称で、ある神経の状態を模倣し、それを再現することで何らかの意思や意味を脳内で再現する技術を指します。先のNIPは元々あったもの(神経)を再現するものです。しかし、ITPはある人物Aの脳内の神経の状態をある人物Bの脳内の神経に再現することで、Aの感情などをBに再現しようとする技術なのです。この点がNIPとITPの最も異なる点であると言えます。つまり、ITPはある人物の脳内の神経を再現するだけではなく、拡張するものであると言えるでしょう。しかし、ITPにはある問題が発生しています。これは先のあらすじの確認で挙げたことなのですが、ITPには感情の平板化という問題が発生しています。

では感情の平板化とは何か。感情の平板化とは、ITPを実装された人が違和感を覚え、世界が色あせているように思えるという現象を指します。この問題はITPという技術を普及させるにあたって、目下の課題であるとされ、ニューロロジカル社では〈wanna be〉という仮想人格に小説を執筆させることで解決への糸口を掴もうという試みが実施されました。

 

では、次にサマンサの病気についての確認に移りたいと思います。

まず、サマンサの病気は自己免疫疾患と呼ばれるもので、主な症状は免疫機構が自分の身体を異物としてしまい、間違えて攻撃してしまうというものです。そして、この病気には現時点では治療法がないとされており、そのことでサマンサの死は約束されていると言えます。

 

以上が背景設定についての確認となります。次に本作品への所感についての確認に移りたいと思います。

 

3 所感

 

先に、ITPとサマンサの病気という二つの背景設定についての確認を行いましたが、本作品ではITPという技術・病気・死を媒介に人格の固有性・生得性が自明ではないことが

露わにされるように描かれているように思われました。そのため、以下ではそのことについての確認を中心に進めていきたいと思います。

 

まず、ITPが人格の固有性・生得性が自明ではないことをどのように露わにしているかについての確認を進めていきたいと思います。先に確認しましたように、ITPとはある人物Aの脳内の神経の状態を人物Bに再現する技術であると言えます。そして、この技術を利用することであらゆる人は自身にはない経験や感情を自身のうちに再現することが可能であると言えます。しかし、この技術はあらゆる経験を共有可能なものとすると同時にあらゆる経験には一切の固有性が認められないことも含意します。何故ならば、人々の経験が共通の基盤のもとになくてはそれらを共有することはそもそも不可能ですし、共有することが可能であるということは人物Aと人物Bの経験には違いが認められないことを意味するからです。このように、ITPは経験の固有性が自明ではないことを露わにします。そして、人格とは脳内の神経の状態のパターンであると仮定するならば、それもITPで再現可能である以上は固有性が認められないということにも繋がるように思われます。

 

以上がITPについての確認となります。次に病・死についての確認に移りたいと思います。

 

では、病と死は人格の固有性・生得性が自明ではないことをどのように露わにしているかについての確認に移りたいと思います。まず、そのことを確認するにあたって、以下の記述を参照したいと思います。

 

人間は情報化された外界を管理する特権的な主体ではない。むしろ情報に影響を受けることが、動物であり肉体であるヒトに人間性を与えている。ヒトは学ぶことで人間になる動物だからだ。[i]

 

ここでは人間性は生得的なものではなく、後天的に獲得されるようなものであるということが記述されています。そして、このことはサマンサの病状が進行するとより顕著に現れているように思われます。

 

死は、頑丈な足場を築いた気になっている者の、足元を崩しさす。そのとき、感覚器は断線し、呼吸程度の身体の実感も失い、鼓動で計るもっとも原始的な時間感覚すら途絶え、意識は自らを振り返ることもできずただ灰色である。ことばを思い出すきっかけなどない。ただ幸運にも生還できた者だけが、ことばも何もない、動物になった自分の絶叫のみが反響する灰色に溺れていたと知るのだ。[ii]

 

以上の記述はサマンサの病状が進行し、死が近づいているときの状態を巧みに表しているように思われます。本作品ではサマンサの病状の進行が緩やかなときには彼女にもある程度の精神的な余裕があるように描かれていますが、一方で病状が進行すると彼女は自身の倫理をも踏み倒し、現在の苦痛を取り除くためにITPを利用しようとします。このように死が近づくにつれて、ⅰの引用にあるように生得性であるように思われた人間性が後天的に獲得されたもので、その粉飾が剥ぎ取られていく様が描かれていきます。

 

以上のことから、本作品では技術と病による死という二つのモチーフを媒介に人格の固有性・生得性が自明ではないことが描かれているように思われます。そして、それぞれのモチーフは独立しているのではなく、例えば、サマンサが病気の苦痛から逃れるためにITPを利用したように、それぞれが影響しあうように描かれているという点で巧みであるように思われました。また、サマンサの病状についての描写は克明なもので強く印象に残っており、それもまた巧みであるように思われました。

 

ここまでに本作品で技術と病を媒介に人格の固有性・生得性が自明ではないことが描かれていることを確認してきましたが、最後にITPが死の固有性を揺るがすことについての問題がどのように描かれているかについての確認に移りたいと思います。まず、先に確認しましたようにサマンサは病状が進行した際に病気の苦痛から逃れるためにITPを利用しようとします。具体的には、別の人物の神経のサンプルをベースとしたITP人格を脳内に書き込むことで現在のサマンサの意識をその人格で上書きし、現在のサマンサが体験するはずの苦痛を和らげようというものです。そして、サマンサは、一度はそれを実施します。しかし、死に瀕した際に自身の神経のサンプルをベースとしたITP人格から、サマンサの神経のうえにITP人格を上書きすることを提案された時にはそれを拒否します。ここには、ITPと死の固有性についての示唆が含まれているように思われます。

 

ITPで、人間を、人格っていうソフトウェアとハードウェアとしての肉体に分離できるようになった。でも、生存という動機は、肉体の上で再生したとき、はじめて一貫性を持つのよ[iii]

 

以上の引用において、サマンサはITPが実現されたことで人格の固有性は損なわれ、肉体を持たない人格(ITP人格)というものが現れたが、だからこそ、既存の肉体と人格のセットはある種の既得権益であると主張しています。そして、そのためにサマンサは既得権益にあやかろうというサマンサ(ITP)の提案を拒否します。このように、ITPが実現されたことで人格の固有性は損なわれたが、だからこそ、既存の人格と肉体を重視する必要があるという思想が説かれています。そして、このような思想のもとではITPを利用することで人間の死を廃絶するということは不可能となるように思われます。何故ならば、ITPの人格に既存の人格と同様の権利が認められない以上、サマンサ(ITP)の提案は実現しないからです。そして、このことはITPの実現で人格の固有性は損なわれたが、一方で死のみがその固有性を担保されていることを意味しているように思われます。このことは以下の記述にも認められるように思われます。

 

彼女自身の死は、一人称でしか語りようのない体験だ。[iv]

 

4 後書き

 

以上で『あなたのための物語』についての所感の確認は終わりとなります。そして、作品を読み返すなかで、サマンサの病状についての記述の克明さはとりわけ印象深いところであることが再確認されました。そのため、そのような描写に抵抗があるかたには厳しいところもあるかもしれません。

 

 

[i] 『あなたのための物語』p336

[ii] 『あなたのための物語』p6

[iii] 『あなたのための物語』p419

[iv] 『あなたのための物語』p309

『ラブレプリカ』感想

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1 前書き

 

お久しぶりです。今回は『ラブレプリカ』をプレイし終えたということでプレイ後の所感を以下に纏めていきたいと思います。また、以下にはネタバレが含まれています。

 

2 所感

 

まず、本作品についての所感の確認に移る前に本作品の構成とあらすじの確認から始めたいと思います。

 

さて、本作品は二つの章から構成されています。一章では、沢人たちがバンドを結成し、文化祭での演奏を目標に努力するということを軸に話が展開されていきます。そして、二章では、二年前の合宿中の事件をきっかけに傷心の沢人たちがバンドを再度結成することを軸に話が展開されていきます。

 

以上で確認しましたように、一章と二章のいずれにおいても、バンドは主要なモチーフとして描かれていると言えます。そして、本作品の優れている点の一つとして、楽器の演奏についての専門的な語句への説明が分かりやすいように描かれているということが挙げられます。

 

Ex1. 8ビート

影士「8分音符を基本にしたのが8ビートだ。つまり、1小節のなかに音符が8つ並ぶ。4分音符なら4ビート。このふたつが基本だ」

Ex2. バスドラ

影士「低音域の周波数は固体を伝うんだ。リズムを身体で感じるというのは比喩ではなく、そのままの意味だな」

「さらに低温というのは伝う距離も長い。沢人の好きな戦国時代にほら貝を合図に使ったのは低温のほうが遠くまで音が届くからだ」

「つまり、客席に音がダイレクトに届きやすいのは何の音だ?」

「そうだ。お前の踏んでいるバスドラだ」

 

以上の引用にあるように、一章ではこのような形で専門的な語句についての説明がなされています。このような形がとられていることで自分のような未経験者も話についていくことができるようになっており、優れているように思われました。

 

しかし、一方では分かりにくい説明も散見されるように思われました。本作品のジャンルが「純愛ミステリーノベル」と銘打たれているように、二章ではミステリー要素を含むような展開が繰り広げられていきます。ですが、ある事件の背景についての説明のいくつかには分かりにくいところもあり(これは私自身の読解力に難があることによるところも大きいでしょうが)これはミステリー要素の前提の事件の背景事実を見えづらくしていることから、やや問題含みであるようにも思われました。(ミステリー要素についての例は踏み込んだネタバレであるため、ここでは省略いたします)

 

以上が本作品の構成とあらすじについての確認、それについての簡単な評価となります。以下では、本作品への所感の詳細な確認に移りたいと思います。ですが、その前に本作品の背景設定のいくつかを確認したうえでそちらに移りたいと思います。

 

まず、本作品の世界ではGODSという病が流行しています。主要な症状は身体の諸器官に異常が発生するというものです。そして、その異常は通常の臓器移植によっては治療不可能なもので高い死亡率が確認されています。しかし、GODSという病はラブレプリカの臓器を患部に移植することで治療可能となります。では、ラブレプリカとは何か。簡潔に述べるならば、人間のジャンクDNAに特殊な処理がなされたうえで発生させられたクローンであると言えます。そして、最も重要な点は、ラブレプリカはGODSに罹患しないことにあります。そのため、ラブレプリカの臓器はGODSの治療のためには必要不可欠であると言えます。以上のことから、ラブレプリカは人間への臓器移植のために発生させられ、その臓器が必要とされる時がくるまでは管理されています。

 

以上が背景設定についての大まかな確認となります。次に本作品への所感の確認に移りたいと思います。

 

さて、本作品への所感についてですが、ラブレプリカという背景設定を下敷きに誰を生かすのかという選択についての葛藤が上手く描かれているように思われました。先に確認しましたようにGODSはこの世界で流行している病です。そして、話が展開されていくなかで視点人物の沢人の身近な人物もGODSに罹患します。GODSに罹患した場合に患部の治療はラブレプリカからの臓器移植を受けることで可能となりますが、患者の数と比較するとラブレプリカの臓器は圧倒的に不足しており、そのことから、臓器にアクセス可能であるのは富裕層であるという事実があります。この事実からすると状況は絶望的とも言えますが、実は沢人の近くにはラブレプリカがいて、その人物からの臓器提供を受けることが出来るならば、患者は助かるという状況が描かれます。しかし、ここで巧妙であるように思われる点は臓器提供を受ける側もする側も沢人にとっては身近な人物であり、そのいずれかを切り捨てることになるという状況が形成されていることです(他のラブレプリカからの臓器提供を受けるという選択は臓器の不足という現状から封殺されています)先に確認しましたように、ラブレプリカを臓器移植のために管理することはこの世界では法的に容認されています。言わば、問題が喫緊の課題であるために倫理の踏み倒しが発生していると言えるでしょう。そして、ラブレプリカは隔離された環境で管理されていることから、レシピエントは倫理の踏み倒しを強く意識することなしにドナーの臓器を受けるように思われます。一方で、沢人はドナーとレシピエントのいずれも親しい人物であるがために倫理を踏み倒したうえで一方を切り捨てるという選択をとることに苦悩します。また、沢人の置かれている状況は例外的な状況であるためにそのような場合にどのように選択するべきかという基準も作中では明示されていないため、葛藤は一層に苛烈なものとして描かれていきます。

 

以上のことから、身近な人物がラブレプリカであることで二者択一への葛藤が強固に描かれていたこと。また、そのような場面でどのような選択をとるべきかという基準が明示されていないことで葛藤はより強固に描かれているように思われました。

 

また、このような二者択一の選択の連続は本作品の随所で取り上げられている「愛」の性質を浮き彫りにしているようにも思われました。以下引用

 

千佳「愛とは、差別だと思います」

千佳「誰かを愛することは、他の誰かよりも特別扱いすること」

千佳「知らない誰かを、私の大切な人と同じように、愛することはできない」

 

以上の引用にあるように、ここでは誰かを愛することはその対象を他とは異なるやりかたで扱うことであるということが描かれていますが、このことはラブレプリカ(ドナー)と人間(レシピエント)の関係に繋がっているように思われます。ラブレプリカの制度とは、まさに知らない誰かが身近な人物、あるいは当人のために犠牲になるというものでこれは先の「愛とは差別」を補強するような関係にあるように思われます。何故ならば、見知らぬ人(ラブレプリカ)よりも身近な人物を愛しているからこそ、この世界の臓器移植の現場は成立と言えるからです。そして、沢人の場合においても、ラブレプリカが身近な人物であるという点で異なりますが、やはり「愛とは差別」にあるように沢人は自身の愛する対象を選択します。

 

以上の点から、ラブレプリカか人間かいう二者択一を媒介に愛の性質が浮き彫りにされているように思われました。

 

3 後書き

プレイ前に予想していた内容とは異なりましたが、良い作品であると思いました。やはり、題材が好みのものであったということもあって、その点については高評価です。あと、ヒロインの身体の描かれかたが特徴的であるように思われました。とりわけ、乳首の周辺のぶつぶつ(モントゴメリー腺?)まで描かれているところには驚きました。

『水葬銀貨のイストリア』感想

 

1 前書き

 

今回は『水葬銀貨のイストリア』を読み終えたということで、プレイ後の所感を以下でまとめていきたいと思います。また、以下の内容はネタバレを含みます。

 

2 あらすじ

 

茅ヶ崎英士は誘拐犯の息子であるという経歴から、学園ではドブネズミと呼ばれていた。そのように周囲の人々に避けられる日々を送るなかで、ヒーロ志望の後輩、小不動ゆるぎと出会う。ある日、ゆるぎは部活の成立のために危険な勝負に挑む。英士は彼女を救うべく、持ち前のトランプの腕前を武器に勝負に打って出る。

 

3 所感

①作中の瑕疵について

 

まず、他の方々のレビューにおいても言及されていることですが、本作品では誤字や演出面の瑕疵が多く見られます。一例を挙げますと、演出面ではある人物の立ち絵が一致していないことが挙げられます。また、誤字については以下にあるように誤変換や不要な文字が含まれているといったミスが見られます。

Ex1)立ち絵の不一致(本来は片方の立ち絵がゆるぎである)

 

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Ex2)不要な文字(f夕桜のf)

 

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同ブランドの前作品『紙の上の魔法使い』においても、誤字は見られましたが、本作品では誤字に加え、演出面の瑕疵も目立つことは残念な点であったように思われます。

 

次に、本作品で良かったように思われる点についての確認に移りたいと思います。さて、本作品で良かったように思われる点についてですが、人魚姫の涙という道具立てを媒介に主な視点人物の茅ヶ崎英士の信念についての問題が浮き彫りにされていたこと。そして、そこで浮き彫りにされた問題の解消がTRUE END ルートで描かれていたことから、茅ヶ崎英士という人物と彼にまつわる問題についての掘り下げが丁寧になされていることは良かった点であるように思われます。以下では、そのことについての確認を進めていきます。

 

まず、人魚姫の涙とは何かという前提についての確認から始めたいと思います。それでは、人魚姫の涙とは何かを確認するにあたって、はじめに作中の人魚姫の伝承についての確認から進めていきます。

 

②人魚姫の伝承

 

その昔、涙で他者のあらゆる傷を治癒することが可能な力を持つ少女がいました。そして、少女は銀貨一枚を対価に島の人々の病や傷を治癒し続けました。しかし、少女はある日に高熱を出したことで倒れてしまいました。彼女の涙は他者の傷を治癒することはできるものの、自身の傷や病を治癒することは出来ないため、高熱に苦しめられるなかでも、島の人々の求めに応じて、涙を流し続けました。そして、治療を続けるなかで少女は自身の力は自身の命を削ることで成立していたものであることを悟りました。まさに、涙を流すたびに彼女の容体が悪化の一途を辿っていたことがその事実を物語っていたのです。自身の死が近いことを悟った少女は島の人々への治療を断るようになりました。しかし、島の人々はそのことを許しませんでした。そして、治療を続けることを強制された彼女は死を迎え、彼女の肉体は水葬されました。彼女の死後、島民の間にある異変が発生します。それは、涙を流すことができなくなったという形で現れました。異変のなかで島民は、それが死した少女の呪いであると考え、彼女を供養するために島中の林檎をかき集め、それらを海へと捧げました。しかし、それでも状況は変わらずに人々は涙を流せないままでいる。

 

以上が人魚姫の伝承となります。そして、これは単なる伝承に留まらず、作中では人魚姫の涙の力を持つ人物が実際に描かれています。以下では、先の伝承を下敷きに人魚姫の在り方がどのように描かれているかについての確認に移りたいと思います。

 

③人魚姫の在り方 利他性について

 

さて、人魚姫というものが作中でどのように描かれているかについての確認を進めていきたいと思います。まず、伝承にあるように人魚姫の涙の力は当人の命を対価に発言するものです。そして、このことは人魚姫の在り方が利他的なものであることを示唆しているように思われます。(以下 引用)

 

灯「何せ、人魚姫の涙は、利己的な人間には流すことが出来ません。利益を追求するものや、涙を悪用しようとする人間は、絶対に不可能です」

「異常なくらいに、自分を殺して他人を想うことが出来なければ 涙は流せないのです」

 

以上の引用に見られるように、人魚姫の涙は自身よりも他者のことを優先するような人に発現する傾向があるとされています。そして、自身よりも他者のことを優先するという傾向性は人魚姫の在り方が利他的であることを示しています。さらに、実際にそのような傾向性は作中の随所で描かれています。(以下引用)

 

人魚姫の涙はあらゆる傷を治癒してくれる。

一握りの人間にしか許されていないその力を、玖々里は何の躊躇いもなく使ってしまった。

 

 

以上の引用にあるようには、汐入玖々里は人魚姫の涙の力を保有しており、さらにはその力を身近な人々のために使うことに躊躇いがありません。このように、人魚姫の在り方が利他性に特徴づけられることは随所に描写に現れています。

 

次に、人魚姫の涙を媒介に茅ヶ崎英士の信念についての問題がどのように描かれているかについての確認に移りたいと思います。まず、それについての確認に移る前に茅ヶ崎英士がどのような背景から信念を形成し、行動をとっているかという前提についての確認から始めます。

 

茅ヶ崎英士の背景について

 

まず、あらすじで確認しましたように茅ヶ崎英士は誘拐犯の息子であり、そのことから学園では煙たがられています。そして、誘拐犯の息子という点の補足になりますが、煤ヶ谷小夜と英士と妹の夕桜は父親の茅ヶ崎征士に誘拐され、監禁されていたという過去があります。そして、長期間の監禁生活のもとで精神的な負荷を受けたことで煤ヶ谷小夜は心に傷を負い、それは茅ヶ崎英士への依存的な傾向という形で現れました。そして、小夜の精神は英士が傍にいることで安定することから英士たちは煤ヶ谷家のもとに養子として迎え入れられます。しかし、英士は、小夜が以前のような明るさを失ってしまったことに負い目を抱いており、彼女の心の傷を治療するための費用を稼ぐべく、カジノへと赴きます。当初は、格下の相手からチップを奪うことで稼ぎを大きく上げていたものの、やがてはそれも通用しなくなり、英士は追い詰められます。そして、英士がカジノへ入り浸っていたことで小夜の精神も不安定になりがちであったことから、英士はハイリスク・ハイリターンのテーブルで勝負に臨むことを決意します。しかし、その場には恩人の煤ヶ谷宗名もいました。彼も小夜を治療するための費用を稼ぐためにその場に立っていたのです。そして、勝負は英士の勝利で終わるものの、カジノのオーナー側の人間から小夜を救うことと引き換えに敗者の宗名を殺害することを要求されます。苦悩の後に英士は宗名を殺害します。その後、治療を受けた小夜は以前(事件前)のような心を取り戻しますが、例外的な治療を受けたことで高額の借金が発生し、小夜はそれを返済するためにカジノで働くことを余儀なくされます。そして、恩人をその手で殺したことと小夜を救いきれなかったことに負い目を抱く英士はカジノへと戻り、小夜の借金を代わりに返済するためにポーカーを続けます。

 

以上が大まかな背景になります。そして、罪を償うために小夜をその手で救いたいという英士の信念は作中の随所で痛ましいほどに描かれています。

 

では、本題の人魚姫の涙を媒介にそのような信念の問題点がどのように描かれているかについての確認に移りたいと思います。

 

⑤信念の利己性について

 

まず、英士は自身が涙を流すことができれば、彼が救いたい人々を一挙に救うことができるという状況に置かれます。そして、先に確認しましたように英士は罪の意識から小夜を救いたいという意識を持っています。ですが、その場面では彼は涙を流すことが出来ないという結果に終わります。この事実は、英士の信念の問題点を浮き彫りにしているように思われます。具体的には、先に確認しましたように人魚姫の涙は利他的な人間のもとに発現するという傾向性があります。そして、英士はまさに小夜を救いたいがために自身の身を削るという在り方から利他的であると言えるように思われますが、結果的に涙を流すことができません。このことは、彼の信念が純粋に利他的なものではなく、誰かを救うことで自身も救われたいという利己的な思いもはらんでいることを示唆しているように思われます。つまり、涙を流すことで彼の信念を達成できるにもかかわらず、そうすることができないという事実は彼の信念が純粋に利他的なものではなく、利己的なものでもあることを浮き彫りしていると言えるように思われます。次に、TRUE END ルートでの問題解消の描かれ方に移る前に個別ルートについての所感の確認に移りたいと思います。

 

(個別 共通①小夜・玖々里)

 

まず、本作品では個別ルートに移行する前に分岐先のヒロインに焦点が当てられた共通ルートが設けられています。ここでは、小夜と玖々里の共通ルートについての確認を進めていきたいと思います。まず、この共通ルートでは祈吏との確執の決着が描かれていた点が良かったように思われます。そして、彼女との主張のぶつけあいでは英士がどのような行動をとるべきであったかという問題についての解答が示唆されています。それは、英士は罪の意識から贖罪を行うのではなく(先に確認しましたように彼の贖罪行為には誰かを救うことで自身も救われたいという思いも内在しており、その意味で利己的なものでもあるように思われます。)罪があるからこそ、罪を自覚的に棚上げにしたうえで身近な人間を苦しめないような行動をとるべきであったというものです。これは冒頭部分で夕桜が示唆していたところでもあり、⑤で確認したような内容の後であるからこそ、その主張が補強されているようにも思われました。

 

 

 

(個別 小夜)

 

あらすじとしては、ポーカーから身を引いた英士が、幼いころの夢を実現するためにトランプを再び握るという話。英士が自身の正体を明かすべきかどうかという葛藤が描かれていますが、自身の正体を口にしそうになってしまうことからも利己的なところが描かれており、茅ヶ崎英士という人間の弱さについての描写は徹底されているという印象を受けました。

 

(個別 玖々里)

 

あらすじとしては、二人が恋人になり、幸せな生活を送るというもの。率直な感想として、あっさりとした終わり方であるように思われました。もう少し、二人の恋人としての生活(例えば、一緒に林檎を食べるという約束は結局描かれていなかったことから、そのあたりの描写をデートシーンとして入れてほしかったという個人的な思いがあります)を見たかったという思いがあります。

 

(個別 共通②夕桜・ゆるぎ)

 

ここでは、夕桜とゆるぎの共通ルートについての確認となります。まず、この共通ルートではバレンタインデーにゆるぎと夕桜が英士と過ごす権利を奪い合うといった展開が描かれていますが、それまでの展開が個人的に重いものであったということもあり、気を楽に読むことができる展開で個人的に良かったところはあります。

(個別 夕桜)

 

あらすじとしては、CAとしての仮面が粉砕され、夕桜と恋人として幸せな生活を過ごすというもの。こちらでも、祈吏との確執の決着が描かれていますが、個人的には小夜・玖々里のほうが好みでした(英士についての問題が指摘されているという点で)

 

(個別 ゆるぎ)

 

あらすじとしては、祖父の死後に進藤和奏は憔悴してしまい、花火への熱意を失ってしまう。しかし、ゆるぎと英士の二人はそのような彼女をどうにかするために奔走するというもの。

このルートでは、進藤和奏についての問題が主に描かれていることもあり、その内容は進藤和奏ルートであるとも言えるような印象も受けました。しかし、最後の問題解消の過程がかなりの急ぎ足で描かれているような印象を受けたこともあり、惜しいように思われました。ゆるぎルートとは別に個別ルートを設けたうえでこのような問題をしっかりと描いてほしかったという個人的な思いがあります。

 

(個別ルート 利己性と利他性)

 

ここまでに個別ルートについての所感を確認してきましたが、先に確認しましたように英士の信念は利己性をはらんでおり、その意味では問題含みであると言えますが、一方で人魚姫の利他的な信念もある意味では問題含みのものとして描かれているところがあります。それは、人魚姫は利他的であるがために自身を切り捨てがちであるところにあるように思われます。以上のことから、利他的な信念も利己的な信念も問題含みのものとして描かれていますが、これらの問題(利他性、利己性を前提としたうえでどのような態度をとるべきか)の解消がTRUE END ルートでは描かれているように思われます。以下では、そのことの確認を進めていきたいと思います。

 

(TRUE END) 

 

TRUE END ルートへの分岐点では英士は涙を流すことができないものの、誰かが犠牲になることをよしとせずに諦めないという選択をとります。その後、英士は問題を解消すべく、周囲の人々への協力を仰ぎますが、他ルートでの展開を念頭に置くとこのような描写は他のルートの描写と対比的な関係にあるように思われます。つまり、他ルートにおいて英士は自罰的な意識から誰かに問題を相談することをよしとせずに自身のうちに抱え込んでいますが、結果的にこのような行動が裏目に出て、誰かが犠牲になるという展開が見られます。一方でTRUE END ルートにおいて英士は自身のうちで問題を抱え込むということをよしとせずに周囲の人々に相談し、結果的にこのような行動が上手く働きます。そして、このような対比を念頭に置くと利己性(英士)と利他性(人魚姫ら)のいずれも相互にコミュニケーションを図らずに問題を内に秘めることがまさに様々な問題を誘引していたということで双方は同じ土台に置かれます。したがって、TRUE END ルートでの描写から利他性と利己性についての問題はいずれが優位であるというような二項対立ではなく、いずれもある点で問題含みであったということが明らかにされているように思われます。そして、その問題こそがコミュニケーションの不足というかたちで描かれていたように思われました。

 

4 後書き

やはり、本作品を読み進めてきたなかで最も印象的な点は茅ヶ崎英士という人物とその人物の問題についての描写にありました。また、利己性や利他性についての問題が描かれている点もとても好みでしたが、商品としての瑕疵が目立つこともあり、評価しづらい作品であることも事実です。ですが、本作品のストーリーを好ましく思う気持ちも事実としてあるため、氏の次回作を楽しみに待ちたいところ。

『キサラギGOLD★STAR』感想

 

1 前書き

今回は『キサラギGOLD★STAR』を読み終えたということで、以下にプレイ後の所感をまとめていきたいと思います。また、以下の部分にはネタバレが含まれます。

 

2 所感

 

以下ではそれぞれのルート(四人のメインヒロイン)についての所感を確認していきます。

 

①遠藤沙弥ルート(以下沙弥)

 

前半部分では二見と沙弥が恋人になるまでの過程が描かれており、後半部分では『竹取物語』に類似した筋書きの伝承を下敷きに伝奇物語が展開されていきます。

 

以下では、前半部分と後半部分のそれぞれについての所感をまとめていきます。

 

まず、前半部分については二人が恋人になるまでの過程が描かれていますが、これについては非常に描写が丁寧であったように思われます。前半部分は、二見が自身の気持ちを自覚する過程、自覚した後に告白する過程の二つに大きく分けられて、そのいずれにもある程度の尺が割かれており、描写が丁寧であったように思われます。ただ、所謂イチャラブゲーなどをプレイしたことがないことなどもあり、エロゲ―での恋愛関係の描写の丁寧さについての自身の判断はかなり怪しいところもあります。

 

 

次に後半部分については伝奇物語が展開されていきますが、これについては共通ルートでその展開が示唆されているところもあり、展開自体に不自然さを覚えることはありませんでした。その意味では共通ルートで布石が打たれていたことが前半部分と後半部分の隔たりを緩和していたところがあるように思われました。

 

そして、実際の内容では伝承が寓話として位置付けられているところがあります。伝承における、男と姫の関係性が二見と沙弥の関係性に重ねられており、実際に二見と沙弥は伝承のように離別の憂き目に見舞われます。このように、伝承を下敷きに共通ルートからの布石が回収されていく部分は良いと思いましたが、一方で以後の結末部分にはややしこりが残るところがありました。前述しましたように、両者は離別の憂き目に見舞われるのですが、そこでは離別自体を阻止しようとする試みや離別したとしても再び会えるかどうかといった問題が描かれています。しかし、結末部分ではその前にEDが挟まれているものの、それまでに問題とされてきた事柄、再び会えるかどうかなどがいつの間にか解消されており、そのような点から前後の展開にギャップを覚えるところがありました。

 

② 羽音々翼ルート(以下翼)

 

翼ルートは、前半部分、中盤、後半部分の三つに分けられます。まず、前半部分では彼女の才能が所与のものであるかどうかについての悩み、次に中盤では、問題の解消後に恋人となった二人についての描写 最後に後半部分では学園祭と商店街の祭のどちらを選択するかという問題 が描かれています。

 

以下では、それぞれの部分についての所感の確認を進めていきます。

 

まず、前半部分についてですが、これには先の伝奇物語の展開の布石がかかわってくるところとなります。二見たちは過去に月の民から腕輪を受け取っています。そして、月の民によるとそれはそれを着ける者の願い(夢)を実現させる力を与えるもので、実際に二見らのなかにも効果が実感されると主張する人物はいます。そして、前半部分で問題とされていることは、翼のピアノの才能が本当に彼女のものであるか、腕輪の力で与えられたものにすぎないのか、ということです。このような問題は、以下の図にあるように二見の説得によって解消が図られています。

 

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後に後述しますが、ここでは才能は個人のもとで培われたものであるという視点のもとに主張が展開されていますが、後半部分ではそこで描かれている問題に対し、前半部分の主張を補強するような視点が導入されており、翼ルートでは主題に明確な軸が設定されていたことが良かったように思われます。

 

次に、中盤についてですが、ここでも描写自体は丁寧であったように思われます。

 

最後に、後半部分についてですが、ここでは翼が学園祭と商店街の祭のどちらを選択するかという問題が描かれています。先に確認しましたように、前半部分では個人の才能が問題とされていたことから個人に焦点が当てられていますが、後半部分では個人の才能を培うような個人の営みが周囲の人々の支えのもとで実現されてきたことに焦点が当てられます。そのため、後半部分ではコミュニティと個人という軸から主題が展開されていきます。

 

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以上の図にあるように、翼は商店街というコミュニティの束縛を疎ましくも思っているところがあります。しかし、二見たちとの交流を重ねるなかで自身の才能というものも周囲の支えのもとで成り立っていたことに気付きます。そして、翼は学園祭で個人として成功することではなく、今の自身を形成する支えとなってくれた人たちの元へ向かう・・・ といったかたちで問題の解消が描かれています。このように、前半部分からの接続がなされており、主題の軸が明確であることは翼ルートを読んでいて、良いと思った点の一つです。

 

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また、翼は心情が()で表現されるというかたちがとられていますが、そのこともあって、翼ルートでは二見の視点からヒロイン視点のモノローグ(厳密にはモノローグではありませんが)が描かれているような状態となっており、個人的に楽しめました。

 

③ 藤丸命ルート(以下命)

 

命ルートも、前半部分、中盤、後半部分の三つに分けられます。最初に、前半部分では彼女の家族の問題が描かれています。次に、中盤では二人の恋人関係が描かれています。最後に、後半部分では彼女の出生と夢についての問題が描かれています。

 

以下では、それぞれの部分についての所感の確認を進めていきます。

 

はじめに、前半部分についてですが、ここでは彼女の家族についての問題が描かれていますが、問題の核心は命の母親と命が相互に配慮しあうことで逆にコミュニケーションが上手くいかないという事態が発生しているところにあります。そして、このような問題が二見の介入で上手く解消するといった展開が描かれています。

 

次に、中盤についてですが、命ルートでは前半部分で恋人のフリをするというくだりがあり、ある意味ではその延長戦上で二人は付き合うこととなるのですが、このようなかたちで描かれていたこともあり、他ルートとはやや毛色が異なるように思われました。

 

最後に、彼女の出生と夢についての問題ですが、命ルートでは家族が主題とされているところがあり、ここにおいてもそれについての問題が描かれています。ただ、後半部分で主にかかわってくる人物は端的に命の妨害行為をおこなってくるのですが、その人物にはサブキャラクターとしてのルートが用意されており、命ルートを見た後にそれをプレイすることにはやや厳しいところがありました。

 

④ 新田いちかルート(以下いちか)

 

いちかルートは、前半部分と後半部分の二つに分けられます。はじめに、前半部分では家族でありたいという願いと恋人になりたいという欲求の葛藤が描かれています。次に、後半部分では、前半部分の葛藤を下敷きにそれらの対決が描かれています。

 

以下では、それぞれの部分についての確認を進めていきます。

 

はじめに、前半部分についてですが、家族であり続けたいという願いと恋人になりたいという欲求の葛藤が描かれています。ここでは、いちかの葛藤が問題の軸として設定されていますが、印象的な点はどちらの欲求もいちかにとっては切実なものでそのために葛藤が生じているというところで、ここでの問題に外的要因による影響は関与していないというところにあります。そのため、ある種のタブーについての問題が描かれているようで、実際はそれが個人の意識のレベルの問題として描かれているところがあります。このような点から、外的要因という敵に位置付けられるようなものを描くことなしにそのような問題を描いているところがあって、そのような書き方もあるのかという驚きがありました。

 

次に、後半部分についてですが、ここでは沙弥ルートの伝奇物語の背景設定が下敷きに展開が進められていきます。まず、いちかには月の民が与えた霊のようなものが憑依しており、それが幼少期には病弱であったいちかを回復せしめたという背景があります。そして、その霊は幼少期のいちかの家族であり続けたいという願いを実現する力を与えてきたが、いちかが二見への恋心を抱いたことを契機にいちかより分離します。そして、霊は月に帰らなければならないという宿命を翻すべく、いちかに決闘を申し込む。以上が大まかな展開となります。ここにおいても、前半部分で問題とされていた、個人の意識のレベルの葛藤が実際に両者の対決というかたちで描かれており、その意味では前半部分での問題を補強するような位置付けとなっているように思われました。

 

3 後書き

 

新島氏が作品に携わっていることがきっかけで読み始めた作品でしたが、十分に楽しむことができました(どのルートが新島氏の担当されたものであるかは終始分かりませんでしたが)とりわけ、翼ルートはお気に入りと言えます。氏の携わった作品ですと、次は『ナツユメナギサ』を読みたいと考えています。

『魔女こいにっき Dragon×caravan』感想

1 前書き

 

今回は『魔女こいにっき Dragon×caravan』の再読を終えたということで、本作品についての所感をまとめていきたいと思います。また、以下の内容は作品についてのネタバレを含みます。

 

2 あらすじ

 

春先、南乃ありすは学園の時計塔で願うと幸せになれるという噂を確かめるべく、放課後に友人たちと時計塔へ向かう。時計塔に着いた後、ありすは時計塔から落ちてきた日記を拾う。その後、自宅にて日記を開くとそこには桜井たくみという男性の視点から自身に身近な女性との関係が描かれていた。そして、日記のページが日を追う毎に追加されていくことを不審に思い、ありすは桜井たくみという人物と日記の調査に乗り出す。

 

3 所感

 

はじめに、本作品では冒頭部分で以下の図にあるような展開がなされます。

 

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以上の図に見られるように、ここではある男女の関係性の推移が描かれています。そして、この例に見られるように物語の非永続性という主題は本作品の随所で描かれています。以下では、そのことを中心に確認を進めていきます。

 

さて、本作品では前述したような主題を浮き彫りにするような構成がとられており、そのような構成がとられていることで後の展開が補強されるといった関係が認められます。

 

では、そのような構成とはどのようなものであるのでしょうか。以下では、本作品の大まかな展開を概観しつつ、そこから浮き彫りになる事柄の確認を進めていきます。

 

まず、本作品では二人の人物の視点が交互に切り替えられつつ、物語の進行がなされていくことを前提に、ありすの視点のあらすじの確認をもう少し進めていきます。

 

先のあらすじにあるように、ふとした出来事からありすは日記を入手し、それを読み進めていきます、そして、日記を読み進めるなかで桜井たくみという人物の視点から自身の身近な人物との関係が描かれていることに気付きます。しかし、そこで描かれていた人物に日記の内容を尋ねるも、当人はそのようなことに覚えはないと返します。そのような奇妙な状況に置かれるなかで、マスコットサイズのドラゴンがありすのもとを訪れます。ドラゴンは自身をバラゴンと名乗り、桜井たくみはジャバウォックという名前の魔法使いであり、彼のせいで街が危険に晒されていると告げます。そして、日記の欠けたページが街中に散らばっており、それを集めることでジャバウォックの思惑を阻止するように頼みます。ありすは提案を受け入れ、日記を探すために街へと繰り出します。

 

以上がありすの視点のあらすじとなります。そして、彼女の視点で日記の欠けたページが集められ、それが読まれる際にジャバウォックの視点に切り替わるという構成がとられています。

 

次に、ジャバウォックの視点ではどのような展開が描かれているかについての確認に移ります。

 

先のあらすじの概観で少し触れたところですが、ジャバウォックの視点では個別のヒロインとの関係が主に描かれていきます。その意味で、そこで描かれている展開は各ヒロインの個別ルートに対応していると言えます。

 

では、個別ヒロインとの関係はどのように描かれているのか。ここで重要である点は、いずれの個別ルートにおいてもジャバウォックはそのルートのヒロインと結ばれているものの、

最終的にヒロインのもとを去ることにあります。そのため、個別ルートでの恋愛模様はいずれも離別というかたちで終わっているのです。

 

以上がジャバウォックの視点における展開の大まかな確認となります。

 

次にこのような背景を踏まえたうえで本作品の構成が浮き彫りにしている事柄の確認に移ります。

 

さて、前述しましたように、ジャバウォックの視点では個別のヒロインとの恋愛模様が描かれており、最終的にいずれの関係も離別に終わります。そして、このような展開の類似性はありすの視点で明かされる事実を踏まえるとある事柄を浮き彫りにするように思われます。

 

それは、ジャバウォックの視点で描かれている物語が、ありすの視点では過去に起こった出来事であり、当事者たちはそのことをただ忘れていること。そのことから、それぞれの個別ルートもそれぞれが可能性として独立しているのではなく、いずれも実際にあった出来事であるということです。

 

この事実を踏まえると、作品の随所で言及されている、物語の非永続性という事柄がこのような構成のもとで浮き彫りになっているように思われます。

 

では、物語の非永続性とはどのようなものであるかをいくつかの例を交えつつ、確認を進めていきます。

 

まず、物語の非永続性を確認するにあたって、本作品で物語というものがどのように位置付けられているかを確認することから始めます。

 

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上の図にあるようにジャバウォックは物語とはどこかにありそうでどこにもないものであり、恋愛や神やヒーロ―などもそれに類するものであると主張します。この主張から、本作品で物語とはフィクションを指すものではなく、広範な対象を指示する語句として位置付けられていると言えます。さらに、物語は現実に対置されるものとして位置付けられていることが以下の図から読み取れます。

 

 

次に、非永続性はどのように位置付けられているかを一つの例から確認を進めていきます。

 

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上の図にあるように、崑崙は例を挙げつつ、その例から物語というものは永続するものではないことを示唆しています。そして、先に挙げた例で恋愛も物語に類するものとされていたことを踏まえると本作品で恋愛は永続しないものとして位置付けられていると理解できます。

 

以上の事柄を踏まえると、本作品では各ヒロインとの離別が同一の時間軸上で描かれているという事実が後に明かされるという構成がとられていることで、構成自体が物語(恋愛関係)の非永続性を浮き彫りにしていると言えるのではないでしょうか。そして、このことはTRUE END で描かれている問題を補強しているように思われます。以下では、ここまでに確認を進めてきた内容を踏まえた上でTRUE END で描かれている問題についての確認を進めていきます。

 

はじめに、TRUE END で描かれている問題についての大枠の確認から始めます。TRUE END のあらすじとしては、ジャバウォックのかつての妻、アリス(注:南乃ありすとは異なる)が登場します。そして、ジャバウォックが自身のことを置き去りにし、他の女性にうつつを抜かしていたことを糾弾します。しかし、ジャバウォックは彼自身の主張からアリスの主張を退けます。そのような彼の態度に業を煮やした彼女は彼に鉄槌を下す・・・というものです。そして、そこで問題とされていることはまさに両者の主張の対立の背景にあります。そのため、以下では両者の主張とその背景を確認したうえでどのような問題が描かれているかの確認を進めていきます。

 

まず、ジャバウォックの主張についてですが、彼の主張を確認するにあたってはTRUE END までに彼がとってきた行動を確認することが理解の一助となるように思われます。

 

先に確認しましたように、ジャバウォックは個別ルートであるヒロインと結ばれた後にそのヒロインの元を去ります。そして、重要な点は、彼は物語(恋愛)が永続しないことを理解しつつも、そのうえで一つの物語(恋愛)に真摯であることは可能であると考えていることにあります。また、物語が永続しないものであり、それと対置される現実は耐え難いものであるという考えから、彼は次から次へと物語を横断することは妥当であると考えています。このような考えは、実際に彼が複数のヒロインとの関係を次々に結んでいたことに現れています。そして、アリスとの思想の対立を理解するにあたって、彼の主張は非常に重要な点となります。

 

次に、アリスの主張についてですが、アリスの主張は物語が永続することが望ましく、一つの物語に真摯であることが望ましい態度であるというものです。そして、このような主張のために彼女はジャバウォックが自身を置き去りにし、他の女性と関係を持ち続けていたことを批判します。

 

以上のことから、ジャバウォックとアリスの主張は物語というものにどのような態度をとることが望ましいかという点で対立しています。問題とはまさにこの点にあります。

 

では、先に確認したように本作品の構成がどのような点でこの問題を補強しているかを確認していきます。

 

まず、前述したように本作品では構成から物語の非永続性が浮き彫りにされています。そして、物語は永続することが望ましいというアリスの主張とこのことは相反するものです。そのため、物語の非永続性という点からアリスの主張は退けられます。実際にジャバウォックは物語が永続しないということから、一つの物語に固執している態度を批判します。

 

では、ジャバウォックの態度に問題は無いかと言えば、ジャバウォックのかかわったヒロインたちは彼のことをほとんど忘れているという点でこのようなことは問題となりませんでしたが、アリスの場合は彼女がジャバウォックのことを記憶しているという点から問題が発生していると言えます。つまり、アリス以外のヒロインとの関係は、ジャバウォックのみが記憶を保有しているという点から非対称なものでそのことで彼の態度は独断的に保障されていたように思われます(例外はありますが)。そして、アリスとの関係は、双方が記憶を保有しているという点から対称的なものでそのために彼の態度が独断的に保障されることがなかった。このように、独断的に態度が肯定されうる状況にあったことが彼の主張の問題であるように思われます。また、これらのことは、物語のなかに存在していたがために関わったものから忘れられてきたことから問題とならなかったことに焦点が当てられているという点から、物語以後(現実)でジャバウォックの主張がどのような問題を含みうるかを示唆していると言えるのではないでしょうか。

 

以上のことから、本作品の構成は物語がどのようなものであるかを浮き彫りにすることで対立の背景を補強しているように思われます。そして、両者の主張はいずれもが問題含みであると言えるように思われます。

 

では、物語にどのような態度をとるべきかという問題はどのように解消されるのか。最後にそのことの確認を進めていきます。

 

さて、物語にどのような態度をとるべきかという問題は『魔女こいにっき dragon caravan』で追加されたシナリオ、「黒の章・灼熱の王子と小さな竜」で描かれているように思われます。以下では「黒の章・灼熱の王子と小さな竜」のあらすじを簡単に確認した後にそこでどのように問題の解消が描かれているかについての確認を進めていきます。

 

まず、あらすじについては、転校生の真田甘楽は学園の時計塔のもとで塔の上から落ちてきた日記を拾います。その後、自宅にて日記を読み進めるなかで桜井たくみという人物の視点で学園の女性との関係が描かれていることに気付きます。しかし、そこで描かれている内容は桜井たくみが相手の女性に惨殺されるといった猟奇的なものでした。さらに、甘楽のもとにマスコットサイズのドラゴンが訪れます。ドラゴンは自身をブラゴンと名乗り、現在の桜井たくみは記憶を失っていることで正気を失っており、日記の内容をあるべきかたちに直すことで彼を元に戻すことができると告げます。桜井たくみと面識がある甘楽は日記を元の内容に直すべく奔走します。

 

以上が大まかなあらすじとなります。では、先に確認した問題はどのように描かれているか

 

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上の図では、物語が終わったとしても全てが終わるのではなく、残るものがあるということが主張されています。そして、この主張は物語が永続しないものであることを前提としたときにそれにどのような態度をとるべきかという問題に示唆的であるように思われます。それは、物語は永続しないものであるとしてもそれによって残るものはあり、それが次の物語を胚胎しているとするような考えです。この考えはアリスとジャバウォックの主張にあったような問題を含んでいないという点で先の問題を解消するような糸口を示唆しているように思われます。

 

しかし、先に確認したように本作品ではジャバウォックと各ヒロインとの個別ルートではまさに物語が終わるというところで個別ルートが終わるためにジャバウォックが去った後のヒロインの物語、エピローグにあたるものが描かれていないものもあります。そのために、物語が終わったとしても残るものがあるという主張を補強するような実例にあたるものが作中では描かれていないようにも思われました。

 

4 後書き

個人的に思い入れがある作品ということもあって、今回はこのようなかたちで感想を書き残しました。読み返したことで以前とは異なる所感を抱いたこともあり、読み返してよかったと思います。