『白いカラス』

1  前書き

 

こういうものがあるらしく、良い機会なので、自分もやってみました。実のところ、創作と言えるものに手を出したことがなく、かなり見苦しいものになっていると思いますが………

 

所要時間:50分

 

 

昨日午前、都内某所において突如、カラスに後頭部を襲撃される。とっさに振り向いたが、相手は変哲のない黒いカラスで、こちらを見て「アホー」と嘲ったなり。

 頭に手をやって傷を確かめる。幸いにして外傷はナシ。

 だが次の瞬間、愚かなオレは愕然と気づいた。さっきまで脳内に充満していた29日〆切短編のアイデアがカラスの一突きによって無惨にも流れ出していたことを。

 カラス! オレの小説を返せ。

 

 

覆水盆に返らず。零れたものが元に戻らないように、俺の記憶もここにはもうない。

 

数日前、会心のアイデアを閃き、そのアイデアの斬新さに歓喜した。だが、肝心の記憶がないとなってはどうしようもない。底なしの空虚さに包まれ、俺は途方に暮れる。照り付ける日差しは鋭く、大粒の汗が頬を伝う。次第に、俺の精神は摩耗していった。

 

しかし、このままでは埒があかない。摩耗した精神を奮わせ、顔を上げると、奇妙なものが目に飛び込んできた。それは白いカラスだった。ポールの縁に立ち、こちらに視線を向けている。次の瞬間、カラスが純白の翼を広げた。今、まさに飛び立たんとしている。俺はその美しさに見入ってしまった。そして、ある事に気が付く。そのカラスはどんどんとこちらに近づいているのだ。

 

数十メートルは離れていたはずが、数メートルほどの距離に近づいてきている。先ほどの「黒いカラス」を思い出し、カラスの接近を避けるべく、身体を動かそうとするも、言うことを聞いてくれない。今や、カラスは目と鼻の先だ。思わず、目を瞑る。瞬間、額に衝撃が走った。

 

身体が傾く。重力に従い、俺の体がゆっくりと倒れていくのを感じる。咄嗟に右腕を伸ばす。ゴツゴツとした感触、アスファルトだ。真夏の日差しで熱されたアスファルトに手をつき、態勢を立て直す。そして、額の傷を確認する。が、そこには何の外傷もなかった。あれほどの衝撃があったにもかかわらず、痕跡すらも残されていない。

 

ふと、辺りを見回すとあの「白いカラス」はどこにもいなかった。まるで、狐につままれたようだ。ぼんやりとした意識のまま、俺は立ち上がる。

 

刹那、膨大なイメージが俺の頭に流れ込んできた。『最初の激動の瞬間、ちょうど大きな缶切りであけられたように、ロケットの横腹がばっくりと裂けた。』これは……何だ?『刺青の絵は、一つひとつ順番に、一、二分ずつ、動き出したのである。』いくつもの光景が脳裏を駆け巡る。『父さんの宇宙船は太陽に落ちたのだ。』まるで、イメージの奔流だ。『おやすみなさい、と妻が言った。』イメージが収束する。不思議なことに、俺は落ち着きを取り戻していた。先ほどの空虚さが嘘のように、思考が澄んでいる。そして、失われたはずのアイデアは思わぬかたちで返ってきた。イメージの奔流は天啓だ。それはひとつの物語のビジョンを示していた。そう、タイトルは『刺青の男』……

 

後書き

 

ということで『白いカラス』でした。白はプラスイメージ、黒はマイナスイメージなモチーフで使われることが多いかもしれませんが(実際は知りません)、今回はそのイメージを逆手にとろうと思いました。白=福音・幸福 であるとしても、それは誰かの不幸のもとに成り立つものではないか みたいなことを書きたかった……ですが、明らかに分かりづらいですね……次は伝わるようなものを書きたいなぁと思うところ。

何故、諌見隼人は騎士で在り続けたのか 『神聖にして侵すべからず』を読む


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ファルケンスレーベン王国。第63代。ルファ・ファルケンスレーベン」

「鷹騎士団団長諌見隼人は、ファルケンスレーベン王国第63代ルファ・ファルケンスレーベンの正当なる王位を認め」

「その王冠に生涯忠誠を捧げる」『神聖にして侵すべからず』エピローグ『女王陛下の王国』

 

晴華瑠波は王国の女王、諌見隼人の瑠波の騎士だ。幼少期のある出来事をきっかけに、彼らの関係は始まった。瑠波の母親は早逝であった。母を亡くし、瑠波は悲しみは暮れる。隼人はそのような彼女を見ることに耐えられず、瑠波を励まそうとするも、彼女が変わることはなかった。彼女は母の姿を間近に見続けてきた。だからこそ、王国が衰退しつつあることも、母がはりぼての女王であることにも気が付いていた。王国を無邪気に夢見ることはできなかったのだ。それでも、隼人は王国はここにあると主張する。確かに、王国にはかつての栄光はないかもしれない。しかし、(隼人の母)、隼人、瑠波の三人がいる。隼人が騎士で、芳乃(隼人の母親)が宰相、瑠波が女王。ちっぽけかもしれないが、ここに王国はあるのだと。かくして、瑠波と隼人は女王と騎士になる。

 

さて、瑠波ルートにおいて、瑠波と隼人は恋仲になる。そして、ついにはファルケンスレーベン王国の王位を正統に継承することを宣言する。ここで、瑠波の母親と父親のことを思いだしたい。生前、瑠波の母親は女王で、瑠波の父親は殿下であった。このことを踏まえると、何故、隼人は殿下とならずに騎士で在り続けたのかという疑問が生じてくる。勿論、恋仲になったとして、かつての父と母のように女王・殿下の関係にならなければならないということはない。しかし、隼人が騎士で在り続けたことには明確な背景があるように思われる。以下では、そのことの確認を進めていく。

 

「何故、隼人は殿下とならずに騎士で在り続けたのか」このことの確認を進めるにあたって、諌見隼人がどのような人物であるかを確認したい。何故ならば、彼の選択の意図を理解するためには彼がどのような人間であるかを理解することが必要だからだ。

 

諌見隼人は王国の騎士だ。しかし、騎士と言っても、実際に王国を守るための役についているわけではなく、王国の雑事(掃除、洗濯、料理など)を担当している。彼はそつがなく、諸々の事柄を着実にこなしていく。そのような彼であるが、苦手とするものがある。それは自身の将来のことを考えることだ。以下の場面を確認していただきたい。

 

「言葉に詰まった。将来のことなんて考えるのは、僕の最も苦手とするところだったからだ。」『神聖にして侵すべからず』第六話『女王陛下は雨模様』

 

ここに認められるように、隼人は自身の将来を考えることを苦手としている。では、彼は自身の将来という問題に対して、どのような対応をとっているのか。ここにこそ、諌見隼人の弱さが認められる。瑠波ルートにおいて、瑠波が隼人に頼りすぎていると考え、独り立ちしようと奮起するという場面がある。当初は隼人も瑠波の独り立ちに協力的であったものの、徐々に不安を覚えていく。何故、不安を覚えるのか。それは瑠波が一人でもやっていけるようになることによって、彼の傍を離れるかもしれないからだ。ここには、瑠波が隼人に依存しているように見えて、隼人こそが瑠波に依存しているという構図が認められる。諌見隼人は晴華瑠波に依存している。何故ならば、彼は自身の将来を考えることを苦手としているからだ。自分が何になるか・どのように変わっていくかを決断することを苦手とするからこそ、その決断を相手に仮託する。瑠波の傍に居続けることができれば、彼女の騎士で在り続けることができるからだ。

 

このように、諌見隼人は多くの事柄にそつがないように見えて、自身の将来を選択することを苦手とし、その決断を他者(瑠波)に仮託している。依存しているのは瑠波ではなく、隼人だったのだ。

 

以上の考えを踏まえると、隼人が王国の騎士で在り続けたことの輪郭が見えてくる。

 

「人は誰しも人生の王様である」と言う。人生の王様であるということは、各々が自身の人生に対しての責任を負っていることを意味しているように思える。誰しもが自身に対しての統治者であるのだ。しかし、諌見隼人は自身がどのようにあるかを決断することを苦手とする。つまり、彼は自身を統治することができていない。ゆえに、統治者(殿下・王)ではなく、従者(騎士)で在り続けたのではないだろうか。

 

後書き

 

ということで『神聖にして侵すべからず』の諌見隼人への考えをざっくりと纏めてみました。改めて見てみると、選ばないことも一つの選択であるという問題があって、隼人が統治者ではないと一概には言えないかもしれないなぁ と思いました。このあたりは今後も考えていきたいですね。もしかしたら、また『神聖にして侵すべからず』で記事を書くかもしれません。

 

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『これは学園ラブコメです。』感想

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1 前書き

 

お久しぶりです。ということで、『これは学園ラブコメです。』を読み終えました。今回は本作品への所感を纏めていきます。また、以下の内容にはネタバレが含まれております。ご注意ください。

 

2 あらすじ

 

高城圭は平凡な日常を送っていた。しかし、ある時、不慮の事故に見舞われてしまう。目を覚ますと、圭のまえには白い空間が広がっており、そこには言及塔まどかと名乗る女性がいた。曰く、圭が不慮の事故に見舞われたことで学園ラブコメとしての強度が落ちてしまい、このままでは『これは学園ラブコメです。』の虚構を司る力が崩壊し、「なんでもあり」が侵入してしまう。それを防ぐためには学園ラブコメとしてのシナリオを遂行しなければならない。かくして、圭とまどかは協力関係をとりむすぶ……

 

以上が大まかなあらすじになります。が、これでは説明が不足しがちなため、本作品の背景設定の確認を進めていきます。

 

まず、「学園ラブコメとしての強度が落ちてしまう」とはどのようなことか。これを理解するために本作品の文章を引用したい。

 

「そうだ。性質が互いに結合する力には秩序がある。秩序のもとで、キャラクターが生まれ、さらにキャラクターが筋道だった出来事を起こすことでフィクションができる。決して、なんでもありではないんだ。フィクションをつくる力は秩序だっている」

 

まどかによると、キャラクターはいくつかの性質のもとに成り立っている。たとえば、本作品のキャラクターの一人、河沢素子はピンク髪、ミディアムボブ、元気、世話焼き、料理下手、幼馴染、女性、高校生、可愛い という性質から構成されている。そして、これらの性質が結合する力には秩序がある。本作品では、「ツンデレツインテールと金髪とお嬢様は互いに結びつきやすい」とされている。このように、秩序のもとにキャラクターが構成され、そのキャラクターたちが関係することによって、作品が形作られる。

 

しかし、圭が不慮の事故に見舞われたことによって、『これは学園ラブコメです。』の学園ラブコメとしての強度が落ちてしまった。つまり、学園ラブコメというジャンルもいくつかの性質のもとに成り立っており、不慮の事故という出来事の性質はそれらの要素と噛み合わないと言える。そのため、学園ラブコメとしての強度が落ちてしまったと言えるだろう。

 

次に「なんでもあり」とは何かを確認したい。まどかによれば、

 

「なんでもあり」とは「反秩序的に性質が結合した結果生じるキャラクターと、その集合体であるフィクション」

 

とされている。例として、「髪が赤であり青であるお嬢様」が挙げられている。先述したように、通常のフィクションのキャラクターは何らかの秩序のもとにいくつかの性質が結合することで形作られるが、「なんでもあり」の場合はそれらの性質が無秩序に結合するとされている。だからこそ、そこには「赤であり青」といったように矛盾が生じてしまう。

 

そして、ジャンルとしての強度が落ちてしまうと、他ジャンルの侵入を許してしまうことに繋がり、それが続くと物語の整合性がとれなくなり、「なんでもあり」になってしまう。かくして、圭とまどかは協力関係を結ぶこととなった。

 

以上が背景設定についての確認となります。次に、本作品についての所感の確認を進めていきます。

 

3 所感

 

本作品では、キャラクターの自由意志についての問題が巧みに描かれていました。以下では、そのことの確認を進めていきます。

 

圭とまどかは学園ラブコメとしてのシナリオを遂行するために奔走する。しかし、そのなかで他のジャンルの侵入を許してしまう。それはファンタジーやSFなどのジャンルであり、それらが侵入すると、『これは学園ラブコメです。』のキャラクターたちはそれらのジャンルの秩序にのまれてしまう。そして、圭はある事実に気付いてしまう。ジャンルという秩序がキャラクターを形作るということは、キャラクターがどのような人物であるかは作品のジャンルに従属しているということだ。だからこそ、ファンタジーやSFなどが侵入してくると、キャラクターたちはそのジャンルの文脈に飲み込まれてしまい、その在り方を変えてしまう。

 

そして、このようにキャラクターが秩序に従属しているということはキャラクターは物語の奴隷であり、そこに自由意志は介在しないかもしれない という可能性を浮き彫りにする。

 

その可能性に絶望し、圭たちは「なんでもあり」の侵入を許してしまう。そして、『これは学園ラブコメです。』の秩序は崩壊し始める。しかし、圭とまどかは必死の努力で「なんでもあり」が侵入してくることを食い止める。

 

ここで重要なことは作品の秩序が崩壊してしまったにもかかわらず、圭たち、キャラクターは残存しているということだ。

 

先に確認したように、キャラクターが秩序に従属しているということは事実ではあるのだろう(この作品においては)しかし、それが全てではない。秩序がキャラクターを規定するように、キャラクターが秩序を形作ることもある。だからこそ、「なんでもあり」が侵入してきたなか、圭たちは残存し、新たに秩序を形作ることによって、物語を終わりに導くことができたのだろう。その意味で、キャラクターと秩序の関係性は一方向性のものではなく、双方向性のものであると言えるだろう。

 

しかし、ここで留意しておきたいことは、上位の視点に立つと、「なんでもあり」という無秩序の侵入という一連のストーリもある種の秩序のもとに成り立っているということだ。確かに、「なんでもあり」侵入後の『これは学園ラブコメです。』では荒唐無稽な話が展開され始めるが(それまでにも荒唐無稽な展開は続いていたが)、あくまでも、それは「無秩序の侵入に抵抗し、秩序を作り出す」というラインのもとにストーリが展開されている。そのことから、そこには秩序があると言える。

 

そして、そこには秩序があるということは、圭たちは秩序から解放されたかのように見えて、その実は秩序に従属しているということだ。

 

その意味で、本作品の「キャラクターに自由意志がある」という展開はある種の詐術であると言えるかもしれない。

 

しかし、そうであったとしても、自分は「キャラクターに自由意志がある」かのように思わされた。そこにこの作品の凄みがあるのではないだろうか?

 

4 後書き

 

ということで、『これは学園ラブコメです。』の感想でした。個人的に、楽しむことができました。過去の作品も追ってみたいなぁと思いました。

 

『電波女と青春男』雑感

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電波女と青春男』は、入間人間/著・ブリキ/イラストによる日本のライトノベル、およびそれを原作とするメディアミックス作品[i] である。また、原作は電撃文庫から出版されており、全九巻から成る。

 

さて、本作品は、高校生の丹羽真が、両親の海外赴任から親元を離れ、叔母の藤和女々のもとで世話になるところから始まる。そして、藤和家には自身を「宇宙人」と騙る少女、藤和エリオがいた。真はエリオの奇怪な言動に当惑を覚えつつも、彼女を放っておくことができず、それに巻き込まれていく……

 

以上が『電波女と青春男 一巻』のあらすじとなる。

 

以下では、『電波女と青春男』への雑感を纏める。第一に、エリオの「宇宙人」とは何かを確認する。そして、第二に、何故、エリオは「宇宙人」であることを必要とするかを確認する。最後に、エリオにとっての「宇宙人」を否定することを確認し、これを結びとしたい。

 

1.「宇宙人」とは何か。

 

そもそも、宇宙人とは何か。それを確認するにあたって、エリオの背景への理解が必要となる。そのため、どのようにして、エリオは「宇宙人」となったのかを確認したい。

 

「六月。普通に下校するはずのあの子は気付いたら、十一月の海に浮かんでいた。この間の記憶と足取り、警察が調べたんだけど本当に何も分からなかったらしくて……少なくとも、エリオに、半年間の記憶がないことは証明されてるわ。あの子、簡単に言えば記憶喪失なのよ」[ii]

 

女々によれば、それまでのエリオは普通の高校生だったのだが、その事件を境にして、自分は「宇宙人」であると騙るようになった。つまり、彼女は元から「宇宙人」だったわけではなく、行方不明と記憶喪失という事件をきっかけに、「宇宙人」を騙るようになったと言える。

 

では、エリオにとっての宇宙人とは何か。

 

「昔から宇宙好きな子だったし、記憶がないっていう恐怖から逃避する先に、知識が豊富でごまかしの効きやすい宇宙を題材に選んだってことだと 私は思うの」

 

と、女々は語る。つまり、エリオにとっての「宇宙人」とは記憶喪失という穴を埋めるための逃避先と言えるだろう。

 

 

2.何故、エリオは宇宙人であることを必要とするか。

 

ここまでに、エリオにとっての「宇宙人」がどのようなものかを確認してきた。端的に言えば、「宇宙人」とは記憶の空白という不安からの逃避先と言えるだろう。では、何故、エリオは宇宙人であることを必要とするのだろうか。その答えについてはここまでの流れで明らかになっているところもある。先に確認したように、逃避先としての「宇宙人」はそれへの解答と言えるだろう。しかし、ここでは『電波女と青春男』の描写を取り上げ、そこでの酷薄な現実こそが「宇宙人」という逃避先の切実さを補強しているということを確認したい。

 

さて、話は『電波女と青春男 二巻』に移る。話が前後するが、諸々の事情から、真はエリオの「宇宙人」という幻想を否定し、彼女をただの地球人に戻した。そして、エリオは社会復帰への一歩を踏み出すことを決意する。エリオは社会復帰の一歩として、バイトを始めたいと宣言したのだった。真もこれには賛同し、エリオが社会復帰できるようにあれこれと手助けする。しかし、エリオを待っていたものは酷薄な現実だった。

 

「きみ、あれだよね。町中を布団被って歩いていた子の中身」「きみはねぇ。町の有名人だよねぇ。あんな恰好で歩けるなんて、度胸満点だと思うよ。うん。その割に、なんか慰安はビクビクしてるのはどうしてかなぁ」「でね、まぁ、ウチで働きたいってことなんでしょうけど あのさ、やっぱりさ、変な人を雇いたくはないでしょ?いや 君がね、お店を経営してると考えてごらんなさいよ。布団巻いてる人なんて嫌でしょ」[iii]

 

と、バイトの面接の試験官は語る。ここでの試験官の判断は「正しいか」という問題は置いておいて、経営者としての判断としては妥当なものに思える。しかし、その判断がエリオにとっての酷薄な現実であることは確かだ。確かに、「宇宙人」を騙り、「寄行」を繰り返したのはエリオだ。その意味で、これは因果応報とも言えるかもしれない。だが、このように、異質なものへの酷薄なまなざしは、「何故、エリオは宇宙人であることを必要としたのか」に示唆的だ。

 

ここで、もう一つの事例を挙げたい。エリオは当初の予定のように、バイトの面接を受けたところでは働くことは出来なかったが、女々の伝手もあって、町の駄菓子屋で働くことができるようになった。そのようななか、かつての同級生が訪れる……

 

「学校でのことを思い出してみなよ。ぶっちゃけエリオちゃんって頭おかしいし、あんま関わりたくないでしょ」[iv]

 

と、かつての同級生は語る。このように、かつての同級生は悪びれることもなく、カジュアルに他者への悪意を吐露する。これも、酷薄な現実だ。エリオは社会復帰を目標にして、駄菓子屋で働いているが、そのことは理解されることはなく、一種の営業妨害なのではないだろうかと言われる。もちろん、彼女の社会的な能力に難があることは事実であるのだろうが(それが事実として、何を言ってもよいかという問題はあるが)、ここにも、異質なものへの酷薄なまなざしがある。

 

纏めると、『電波女と青春男』の描写には、ある種の「乾き」が通底している。つまり、異質なものへの迫害のまなざしがそこにはあり、記憶喪失で異質なもののエリオにとって、それは酷薄な現実であるのかもしれない。だからこそ、エリオは宇宙人であることを必要とするのだろう。現実はあまりに酷薄だから、そこからの逃避先が必要なのだ。例え、それが真実ではないとしても。

 

 

3.宇宙人を否定すること

 

ここまでに、エリオにとっての宇宙人は何か、何故、エリオは宇宙人であることを必要とするのかを確認した。先に確認したように、『電波女と青春男』においては、異質なものへの迫害のまなざしにあふれた、酷薄な現実が描かれている。そして、エリオにとって、現実はあまりに酷薄だからこそ、その逃避先が必要なのだ。

 

では、エリオはこのままで良いのか。この問題は難しい。ある意味、エリオにとっての「宇宙人」は信仰のようなものだからこそ、そこに介入することを是とすることは微妙な問題だ。しかし、真はエリオの「宇宙人」という幻想に踏み込む。

 

「腹が立つのだ。宇宙人を後ろ向きに信じていることが、我慢ならない。それは順風とか満帆とか、そういった善意の方向よりも目につき、無視しきれない。神秘とは希望であるべきだった」[v]

 

丹羽真は語る。つまり、彼にとって、逃避のために「宇宙人」という幻想が利用されていることが我慢ならないのだろう。何故ならば、それは後ろ向きなものだから。かくして、真はエリオの幻想を否定しようとする。

 

では、どのようにして、真はエリオの幻想を否定するのか。

 

かつて、エリオは自分が「宇宙人」であると信じ、自転車に乗ったままで空を飛ぼうとした。が、彼女は空を飛ぶことができなかった。そして、真は、エリオと一緒に自転車で空を飛ぶことを提案し、飛べなかったら、自身が「宇宙人」であることを否定することを要求する。このように、真はかつての行いを反復することでエリオの幻想を否定しようとするが、ここには「他者の幻想と付き合うときの手続き」が示されているのではないだろうか。

 

「他者の幻想と付き合うときの手続き」とは何か。それを確認するにあたって、いくつかの部分を参照したい。

 

「見えないものに触れる方法は、信念しかない。そして、その信念を表すのに必要なのは、儀式と祈り」[vi]

 

と、エリオット(a)は語る。突き詰めると、彼の主張は「見えないもの=幻想に触れるための手続き」だ。ここで、事態を分かりやすくするためにエリオの「宇宙人」を挙げよう。エリオにとっての見えないものとは「宇宙人」だ。そして、彼女は「自分は宇宙人だ」という信念を持っている。ただし、信念はそのままでは外界に反映されない。だから、信念を表すには何らかの手続きが必要とされる。それは対象が「あるということにする」というものだ。エリオにとって、それは「宇宙人」としての発言・振る舞い、ひいては自転車での飛行がそれにあたるのだろう。

 

つまるところ、現実において、見えないものを取り扱うためには、何らかの手続きを必要とするということだ。その手続きがどのようなものであるかは対象ごとに異なるだろうが、エリオの場合、「宇宙人」としての振る舞いなどがそれにあたる。いずれにしても、対象が「あるということにする」ということは共通の手続きだ。そのため、エリオットの主張は「ごっこ遊び」の原理に通じるものとも言える。

 

さて、ここまでに「幻想に触れるための手続き」を確認してきたが、これらのことは「他者の幻想と付き合うときの手続き」にも関わってくる。

 

先に確認したように、信念はそのままでは外界に反映されない。だから、信念を表すには手続きが必要とされる。そして、この手続きは「他者の幻想と付き合うときの手続き」にも関わってくる。

 

だからこそ、真はエリオの幻想は偽りだと主張するのではなく、エリオの幻想に乗っかったうえで、それを否定しようとしたのだ。つまり、幻想を否定するためには、外部にいるままにそれを否定するのではなく、幻想に触れるための手続きに則り、相手の世界観に寄り添うことが必要となるのだ。

 

真はエリオの幻想を否定した。それは彼女のそれが後ろ向きなものであり、そのことが気に食わないという理由によるものだった。そのことから、彼の行いはエゴと言える。確かに、『電波女と青春男』においては、エゴのもとにささやかな幻想が否定されるところが描かれているが、そこには「他者の幻想と付き合うための手続き」が示されている。それはある種の倫理と言えるかもしれない。

 

 

後書き

 

ということで『電波女と青春男』の雑感でした。実のところ、全巻を読み終えたあとで書こうと思っていたのですが、ここまでの所感を纏めておきたい、何らかの文章を書きたいという理由があって、これを書くに至りました。また、ここでの感想は一巻~二巻を読み終えてのものなので、全巻を読み終えた後に別の感想を書くと思います(恐らく)

 

(a)  エリオットとはエリオの父親である。現在は家を出ている。

 

 脚注

 

[i] 『電波女と青春男』wikipedia

[ii] 入間人間電波女と青春男』P149

[iii]入間人間電波女と青春男 二巻』P84~85

[iv]入間人間電波女と青春男 二巻』P121

[v] 入間人間電波女と青春男』P217

[vi] 入間人間電波女と青春男 二巻』P295

『死神の精度』対談 告知

お久しぶりです。今回の記事は告知になります。この度、『止まり木に羽根を休めて』の管理人のfee さんと『死神の精度』の対談を行いました。

全部で三回ぐらいの連載になると思います。ぜひ、ご覧ください!

 

対談につきましてはこちらをご覧ください。

 

内容(*以下のリンクは対談の記事が更新されるたびに更新されます)

 

第一回 『死神の精度』『死神と藤田』『吹雪に死神』

 

第二回 『恋愛で死神』

 

第三回 『旅路を死神』『死神対老女』

『さくら、咲きました。』感想

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1 前書き

 

ということで、先日『さくら、咲きました。』を読み終えました。率直な感想として、良くないところも見られましたが、一方で、良いところも見られました。以下では、本作品の良いところ・良くないところを列挙し、その根拠についての確認を進めていきます。また、以下の内容にはネタバレが含まれております。ご注意ください。

 

2 所感

 

それでは、本作品の良くないところ・良いところの確認に移るまえに、本作品の背景設定の確認を進めていきます。

 

まず、『さくら、咲きました。』の世界では、「トコシエ」という技術が確立されており、それが一般に普及しています。では、「トコシエ」とはどのような技術か。端的に言えば、肉体の老化を抑制し、擬似的な不老不死を獲得させるための技術を指します。しかし、あくまで「擬似的」であるため、交通事故などによって、肉体が重度の損傷を負った場合、「トコシエ」であっても、死に至ります。しかし、外的な要因がないかぎり、「トコシエ」が死ぬことはありません(自殺は例外でしょうが)

 

ⅰ 良くないところ

 

まず、良くないところの確認を進めていきます。

 

第一に、主題がぶれていること。

 

これを確認するにあたって、まず、物語の大筋をざっくりと確認します。

 

先に確認しましたように、この世界では「トコシエ」という技術が確立しています。そして、「トコシエ」は不老不死であるため、死を身近に意識することがなく、生への実感が希薄になりつつあります。そして、翼(視点人物)も属する「生活部」は、生の実感の希薄さをどうにかし、生きるための活力を見つけていこう という方針で運営されており、翼や他の人物(ヒロイン)たちもそこに所属して、楽しい日々を送っていました。しかし、ある日、隕石が地球に衝突するという知らせが飛び込んできます。そして、これをきっかけに、「トコシエ」たち(翼たちも含む)は死を意識していきます。

 

かくして、問題は、死を突き付けられるなか、それとどのように向き合っていくか ということになります。そして、いずれのルートにおいても、個人が死をストレートに受け入れることが難しい ということが描かれています。つまり、死を見つめることによって、生が意識されると言っても、死を見つめ続けることには苦痛が伴うと言えます。

 

では、どうすればよいのでしょうか?本作品では、「日常」が個人を支えるということが提示されています。つまり、死を見つめ続けることには苦痛が伴うからこそ、誰かと寄り添うことによって(これはルートごとのヒロインでもありますし、「生活部」の面々でもあります)これまでの、あるいは、新しいかたちでの「日常」を維持し、日々を楽しく生きていこう ということが示されていると言えます。

 

このように、小惑星の衝突を足掛かりにして、「トコシエ」が死とどのように向き合っていくか これこそがここまでの主題であるように思えます。

 

さて、本作品では、三つの個別ルート(都、美羽、つばめ)→チャプター「サクラ、桜」→二つの個別ルート(会長、奏)→一つの個別ルート(すみれ) という構成がとられています。そして、先の主題は三つの個別ルートで提示されています。

 

そして、一番の問題は、この構成にあると言えます。具体的に言えば、三つの個別ルートでは、隕石が地球に衝突するまでの過程が描かれており、いずれにおいても、死とどのように向き合うかが描かれています。しかし、チャプター「さくら、桜」においては、そもそも、隕石が地球に衝突するということがフェイクニュースであったことが明かされます。さらには、隕石が地球に衝突するということもなくなったので、「トコシエ」たちは死を意識することが必要なくなり、いままでの日常に帰っていきます。このように、チャプター「サクラ、桜」においては、それまでの個別ルートで問題とされてきた事柄の背景が明かされていきます。

 

また、それだけではなく、チャプター「さくら、桜」においては、作中の時間が約百年経過しているのですが、そのことを足掛かりに、不老不死の「トコシエ」は定命の非「トコシエ」とどのように付き合っていくべきか という主題が展開されています。個人的に、ここがまずいところだと思いました。何故ならば、不老不死の「トコシエ」と定命の非「トコシエ」という対立軸が設定されている以上、そこでは「トコシエ」の死は問題となりません。むしろ、死なないことが問題となります。そして、このように、「トコシエ」の死を問題としないようなかたちで主題が展開されていることによって、それまでの主題が有耶無耶にされているのです。ノベルゲームでは、複数のルートが設定されていることが多く(間違えていたら、申し訳ありません)そのため、それぞれのルートごとに主題が異なることもあると思います。しかし、ここでの主題がそれまでの主題を否定するかのように思えてしまい、自分は肯定的に受け止めることは出来ませんでした。

 

 

第二に、一部の個別ルートへの導入が強引で、キャラクターの気持ちが捻じ曲げられているように思えたこと。

 

これは会長(瀬利華)ルートの話になりますが、会長ルートは美羽ルートからの分岐という構成がとられています。そして、問題は、それまでの過程で、翼も美羽も惹かれあっていたにもかかわらず(微妙な距離ではありましたが)、突然、翼が会長に惹かれていったこと、そして、そのことへのフォローがなかったことにあります。会長が翼に好意を抱くことには、それまでの蓄積があるかもしれないので(それでも、フォローはほしいですが)、頷けますが、それまで、翼と会長には接点も少なく、少なくとも、会長に惹かれているような描写がなかっただけに、何故、そうなったかについての説明がほしかったです。個人的に、物語の進展(ここでは、会長ルートへの方向転換のため)のため、キャラクターの気持ちが捻じ曲げられているように思えてしまい、辛かったです……

 

ⅱ 良いところ

 

次に、良いところを挙げていきます。

 

第一に、システムが優れていること。

 

本作品には「シナリオプレイヤー」というシステムが導入されております。どのようなものかと言えば、以下の図にあるように、プレイヤーは動画のシークバーを動かすかのように、シナリオを任意の位置へ飛ばすことが可能となるのです。また、いくつかのポイント(例えば、セーブポイントやシーンの切れ目など)も可視化されています。シナリオを読み進めるにあたって(また、読み返すにあたっても)非常に有用であるように思えました。

 

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第二に、背景が綺麗であること

 

まず、自分は絵についての素養がなく、これらがどのような点で優れているかが分からないため、個人的な印象に基づき、話を進めていきます。

 

とりわけ、桜の描写は美しく、印象に残っています。(以下に、いくつかのサンプルを貼りました。)

 

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第三に、塗りが良いこと

 

これも同様に、自分には絵についての素養がないため、個人的な印象に基づき、話を進めていきます。

 

本作品では塗りのためか、キャラクターの肌の疾患がつるつるとしており、美羽や奏の身体の幼さがよく表れています。恐らく、刺さる方にはとても刺さるでしょう(実際、自分には刺さりました)

 

3 後書き

 

ということで、『さくら、咲きました。』の感想でした。見返してみると、結構な酷評をしていますね……

『ゆびきり婚約ロリイタ』感想

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1 前書き

 

『ゆびきり婚約ロリイタ』を読み終えました。端的に言えば、テキストが素晴らしい。ということで、今回は『ゆびきり婚約ロリイタ』の感想を纏めます。また、以下の内容にはネタバレが含まれております。ご注意ください。

 

2 所感

 

「生きてるだけで罪を重ねていくように。ひとに迷惑をかけて、もう迷惑なんてかけまいと思って、恩返しをしようと思って生きて、その過程でまた迷惑をかけて―――借りてるばかりのなかにありながら愛に生かされている」『ゆびきり婚約ロリイタ』

 

「生きているだけで罪を重ねていく」とあるが、本作品では、罪の意識についての洞察に光るところがある。以下では、本作品において、罪の意識についての問題がどのように描かれているかの確認を進める。

 

まず、啓人は、鈴佳に性的なパートナーであることを要求することに罪悪感を覚えている。何故ならば、鈴佳には成熟しているところもあるが(とりわけ、精神面については)、それでも、性的なことがらについての知識は不足している。そのため、性的な知識については、両者のあいだに非対称性が認められる。だからこそ、相手の無知につけこむかのように、性的なパートナーであることを要求することに罪悪感を覚えたのだろう。

 

そして、鈴佳に対して、啓人は一線を引いていた。つまり、罪の意識があるからこそ、そこに踏み込むことが躊躇われたからだ。しかし、それは孤独の道だ。生きることによって、罪が累積していき、それがあることで、相手に踏み込むことが躊躇われるならば、孤独であるほかに道はないのだろうか?

 

そんなことはない。罪の意識があったとしても、孤独を解消し、お互いに寄り添うためにはどうすればいいか が示されている。

 

それは「お互いに罪の意識を抱えているが、それを理由に相手に踏み込まないのではなく、それぞれの罪を赦しあうことによって、寄り添うことができる」というものだ。

 

かくして、啓人・鈴佳の問題は「擬似的に」解消される。何故ならば、物語の終盤において、鈴佳は啓人のこどもを身ごもるが、彼女は学生であり、啓人は会社員(恐らく)だ。そのため、これまでの生活を維持しつつ、子ども育てていかなければならない という問題が見え隠れする。彼らは「お互いが赦しあうことによって」罪の意識についての問題を解消したが、あくまで、それは問題を擬似的に解消しただけであって、罪の意識を解消し、関係が進展したときに付随してくるものについては考慮されていない。しかし、彼らにはよるべがなく、「申し訳ないと思い続けないと生きられない生」があった。だからこそ、彼らの行いは軽率なものであったかもしれないが、それだけで、否定されうるものではないかもしれない。

 

3 補遺

 

鈴佳と啓人は「ずっと一緒にいようっていう約束は、いつか離ればなれになる約束」という問題を解消するため、二人のこどもを作ることを選択する。何故ならば、同じとき、二人が死ぬことは不可能であっても、子どものなかに生き続け(このことの背景には、子は親に対して、生を受けたということから、比類ないほどの借りがあり、そのため、子に借りへの意識(罪の意識)がある以上、そこに自分達も生き続けるという論理があるように思える)子どもが死ぬときに同じ死を迎えることはできるからだ。鈴佳と啓人はそれぞれの罪の意識を赦しあうことによって、寄り添った。そのため、そこには対称性がある。だが、子どもはどうだろうか?比類ないほどの借りを負わされるにもかかわらず、子どもはそれを了承することはできない(何故ならば、生まれていないから)そのため、そこには非対称がある。素朴な疑問として、比類ないほどの借りを一方的に背負わされることをどのように受け止ればいいかが分からなかった*

 

*『ギャルゲヱの世界よ、ようこそ!』において、類似の問題が取り上げられている。また、再読することになるかもしれない。あるいは、他の作品に触れるか。

 

4 後書き

 

前書きでも言いましたが、とにかく、テキストが素晴らしい。他の作品も気になるので、後日、触れることになるかもしれません。