『ハーモニー』感想

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1 前書き

 

今回は『ハーモニー』を読み終えたということで内容についての所感を以下に纏めていきたいと思います。また、以下の内容にはネタバレが含まれておりますので、ご注意ください。

 

2 あらすじ

 

大災禍の後、人類は相互扶助の精神を基盤とするような社会を築き上げていた。そこでは、あらゆる病が淘汰され、健康であることがある種の価値を有していた。螺旋監察官の霧慧トァンは「生府」の管理下に置かれていない土地の住民との交渉の役目についていた。しかし、ある時に飲酒・喫煙を嗜んでいたことを理由に謹慎処分を下されることになる。そして、トァンは故郷の日本へと帰還し、かつての友人のキアンと再会することになる。しばしの間、トァンはかつての友人との会話に華を咲かせるも、突如、キアンは手元のナイフで自害したのだった。トァンは友人の不審死の謎を解明するために奔走する……

 

以上が『ハーモニー』のあらすじとなります。では、所感の確認に移る前に『ハーモニー』の背景設定の確認に移りたいと思います。

 

以下では背景設定の確認を進めていきます。まず、本作品の社会がどのようなものであるかについての確認から始めたいと思います。

 

先にあらすじで確認しましたように、現在の社会が構築された契機には大災禍というものが深く関わっています。大災禍とは核戦争のことを指しており、前時代に核戦争が終結を迎えた後、地球には放射線が残留したとされています。当然、人体には有害なレベルのものであり、そのような事態を解決するために相互扶助の精神と健康の促進を基盤とするような社会(生府)が形成されました。そして、そこでは一定の年齢になると「watch me」というアプリケーションが身体に導入され、以後はそのアプリケーションが体内のパラメータを監視し、その恒常性が保たれるように様々な提案を使用者に投げかけます。他にも、日々の食事はコンサルタントが提供するものを基準とし、それに沿うようになされることが推奨されています。そのため、そこでは「生府」の方針に忠実であるほどに身体的な特徴(例えば、肥満・痩せ気味などの体型や肌の具合など)は均一なものへと近づく傾向にあります。また、相互扶助の精神からボランティアに積極的に参加することも奨励されています。以上のことから、『ハーモニー』の社会ではアプリケーションやサービスのもとに均一な健康が志向されており、相互扶助の精神からそれぞれが助け合うことが奨励されている社会であると言えるでしょう。

 

次に本作品の主要な人物の一人、霧慧トァンの背景設定についての確認に移りたいと思います。

 

幼少期から、霧慧トァンは「生府」の方針に違和感を覚えていました。そのため、当時は同じような感覚を覚えている子らと親しくしており、社会への反抗心を煮えたぎらせていました。そして、ある時に薬を服用することで自殺を試みるのですが、結果的にトァンは助かってしまいます。以後、トァンは表面上は社会に適合したような姿を見せつつも、水面下では社会への反抗心を燻らせており、学校を出た後に螺旋監察官の仕事に就きます。螺旋監察官とはWHOの一部局であり、その仕事はそれぞれの土地の政府がその住民に健康的で人間的な生活を保障しているかどうかを査察するものであるとされています。このような点から、螺旋監察官の仕事は「生府」の方針の尖兵とも言えるものですが、トァンの目論見はそれに殉じることになく、辺境の地では監視の目が緩いためにアルコールや煙草などの禁制品を入手することが可能であるという点にありました。ですが、先のあらすじにあるようにトァンの目論見は看破され、日本に戻ることを余儀なくされます。

 

以上がトァンの背景設定についての確認となります。

 

それでは、次に所感についての確認に移りたいと思います。

 

3 所感

 

ここまでに背景設定についての確認を行いましたが、本作品では「watch me」などの技術やサービスを媒体に人間が自身の判断の基準を嘱託することとその極北が描かれているように思われました。そのため、以下でははじめに「watch me」などの技術がそれをどのように描いているかを確認した後にその極北についての確認に移りたいと思います。

 

まず、「watch me」とは先に確認しましたように身体の恒常性を保つためのアプリケーションの一種です。そして、ここで重要な点は「watch me」は身体のパラメータを監視するだけではなく、恒常性を保つために使用者に提案を投げかけてくるということです。具体的には、ある人物が会話をしている際に相手の発言に不愉快に思われるようなものが含まれており、そのために感情が刺激され、感情的になった場合に「watch me」はその状態はその場に適切なものではないと提案し、感情を鎮めることを要請します。このように、「watch me」にはどのように振る舞うべきかというような社会的な基準が含まれており、作中の描写では社会の人間はそのことを妥当なことであると受け入れているように思われます。以下、一例

 

watch me に警告されてしまいましたわ。対人上守るべき精神状態の閾値をオーバーしているって」

「ええ、私を内部から見守る視線があるということは、ずいぶんとありがたいことです」[i]

 

そのため、この社会では「watch me」というアプリケーションにそれぞれの判断の基準が嘱託されていると言えるでしょう。

 

次に、サービスについてですが、先に確認しましたようにこの社会では日々の食事はコンサルタントの基準に沿うようになされています。このことも先の例と同じように健康という基準への判断が嘱託されていると言えるでしょう。

 

以上のことから、技術とサービスのそれぞれを媒介に人間が判断の基準を嘱託することが描かれていると言えるでしょう。そして、判断の基準が外部に委託されているということはそれぞれの人の意思が自動化されていることを意味しているように思われます。つまり、判断の基準の嘱託することは自身の意思をそれに沿うようにし、それぞれの場面への対応を自動的なものへとすることを意味するのです。

 

では、判断の基準の嘱託の極北には何があるか。それには人間の自由意思というものが関わってきます。以下ではそのことを中心に確認を進めていきます。

 

まず、ここまでに確認しましたように「watch me」には体内のパラメータを監視する働きがありますが、脳の中はその例外であるとされてきました。そのため、脳はある種の聖域と見なされていたのです。しかし、トァンは不審死の事件を追うなかで実際は脳のパラメータを監視することは技術的に可能になっており、その技術を利用することで人間の精神状態を制御することすらも可能であることを知ります。そのうえ、一連の不審死はその技術によって引き起こされたものであり、全人類にそれが実装されようとしていることも知ります。しかし、ここで重要であることは、当初はこの技術が人間の不完全な精神を統御するために作られたものであるということです。ⅰで確認しましたように、「watch me」は人間の精神のパラメータを監視し、注意を促しますが、当人は注意を促されるまではそのことに気付きません。また、この社会では外部に判断の基準を嘱託することで判断を自動化することが可能となっていますが、どのコンサルタントの判断の基準を採用するかは個人の裁量に任されているように思われます。つまり、判断の自動化はある程度は達成されているものの、部分的には人間の意思が介入するような余地が残されているのです。そして、先の技術はそのような余地を取り除き、ある種のヒューマンエラーを完全に排除するようなものであるように思われます。以上のことから、判断の基準の嘱託とその帰結としての自動化の極北には、人間の自由意思も取り除かれ、それすらも自動化されてしまうということがあるように思われます。

 

このように、『ハーモニー』では技術やサービスを媒介に人間の判断の基準の嘱託とその極北が巧みに描かれているように思われました。そして、このことはある種の「ディストピア」が為政者のみで実現されるのではなく、人々の嘱託の帰結として実現されうることを示唆しているようにも思われました。

 

 

4 後書き

 

数年前に『虐殺器官』を読んだものの、当時にはそれに乗り切れなかったこともあり、しばらくは本作品に着手することはありませんでしたが、初読の印象としてはこちらのほうが読みやすいという印象を抱きました。

 

[i] 『ハーモニー』p142