『神聖にして侵すべからず』雑感 印象的・好きなシーン集
1 前書き
『神聖にして侵すべからず』は素晴らしい。ということで、先日、『神聖にして侵すべからず』を読み終えて、感想を投稿いたしましたが、未だ、本作品への熱が冷めません。ですので、今回は『神聖にして侵すべからず』で印象的・好きなシーンを列挙し、つらつらと語っていきたいと思います。
2 『神聖にして侵すべからず』印象的・好きなシーン
ⅰ共通ルート
何が王であることを担保するのか?当時、このシーンは印象に残っていませんでしたが、後の展開を踏まえたうえで思い返してみると、示唆に富んでいます。
通常、王であることを担保するものは王権下の諸制度なのでしょうが、そもそも、ファルケンスレーベン王国は正式に国家として認められたものではなく、あくまで、ご当地の名物のようなものです。
では、諸制度があてにならないならば、何がそれを担保するのか。それは人々の心(信仰)なのでしょう。
*補足
このあたりの話は先日の記事で取り上げたことなので、詳細についてはそちらを参照ください。
「友情は見返りを求めない」
屋上にて、この台詞が発されているところから、某作品が意識されているのだろうなぁ と思いました。ふと、懐かしさに包まれました。
「こうして僕らは王国になった」
素晴らしい!『神聖にして侵すべからず』では、随所にこのようなモノローグが差し込まれるのですが、情動を揺さぶってくるようなものが多く、悶えてしまいます。この後のシーンにて、「こうして僕らは友達になった」という一文が差し込まれるところも良い。定型文の反復は、ここぞという場面でなされると効いてくるものだなぁと再認しました。
ⅱ 希ルート
「君のことが好きと言えれば、多分、すぐにカタがつくんだろうけど、それですませていいような気もしないんだ。」
完全にやられてしまいましたね…… お互いに手探りで、それでも、一歩ずつ、互いの気持ちを確かなものにしていくというところが素晴らしい。
カイコからクワゴへ
希は、自身のことをカイコにたとえ、自活するための糸を出せないことがまさに自身の無力さを表していると捉えます。しかし、それに対して、隼人はカイコではなくクワゴになればいい と言います。呼称の変更はありきたりなものですが(言葉は悪いかもしれませんが)、それを言葉を介してのイメージの変革に結びつけるところが面白い。
「恋人になったということは、恋人でいることの始まりなんだなって」
具体的に何がと問われると難しいですが、良いですね。当たり前のことを言っているのですが、改めて、それが口に出されることで殊更に意識される。先の場面(好意の確認)もそうですが、隼人は当たり前のことを捉え直すことへの資質に長けているように思えますね。時折、彼が詩的な言葉を口にすることもこれによるのだろうかと思ったり
初々しすぎて、悶絶しまいますね……本当に、手探りながらも触れ合っていく姿が眩しすぎて、完全にやられてしまいました。あと、『神聖にして侵すべからず』は初回のHシーンが良いですね。手探りながらも触れ合い、睦みあうところがやらしい。
「家臣の望みを叶えてやるのも、主君の度量というものだ」
この場面もずるいですね……他のルートにおいても、瑠波が隼人に思いを寄せていることは明らかで、にもかかわらず、瑠波は隼人が王国を出ることをよしとする。当初、二人から王国は始まったにもかかわらず、それを自分だけで背負おうとし、隼人を送るすがたはあまりに凛々しい。
ⅲ 操ルート
可愛い……美味しいものを食べて、幸せそうにしている姿があまりに可愛い。これに限らず、操はあまりにひたむきで、そのために眩しくもあります。
「気が向かなくなれば、我も我が王国も弊履の如く捨てるであろう」
この台詞はあまりに重いですね。個人的に、瑠波が隼人に依存しているように見えて、隼人こそが瑠波に依存しているように思えます。そして、瑠波は隼人のそのようなところを見抜いており(恐らく)、だからこそ、多くのルートで、隼人を王国から解放しようとするのだろう。しかし、自分はこのような人物に弱いところがあるので(具体的には、相手に好意を寄せつつも、その相手が好きだからこそ、相手の背中を押してしまうような人物*)、やられてしまいました。
*補足
『きっと、澄みわたる朝色よりも、』の夢乃蘭もそのような人物だったので、本当に、自分はそのような人物に弱いのでしょう……
個人的に、この場面はかなり好ましいです。何が良いかと言えば、「わかんないところも色々あるけど、でも、操は僕をわかってくれてる気がする」という言葉が出てくるところに二人の関係性が集約されているところです。つまり、具体的に何を考えているかが分からなくとも、それでも、相手が自分のことを分かってくれているだろうという推測はかなりの信頼がなくては成り立たないように思えるため、この台詞は幼馴染としての二人の関係を端的に表しているように思えます。このような、ちょっとした台詞で二人の関係を示してくるところが素晴らしい。
あまりに可愛い……
(あまりの良さに言葉を失う)
正直なところ、操も好ましいのですが、瑠波があまりに好ましすぎて、そちらに目がいきすぎたところは否めないです。
ⅳ 澪里ルート
どうやら、自分はこの種のシチュエーションと構図を好ましいと思うようです。『しろくまベルスターズ♪』『そして明日の世界より』もそうですが、恋人同士が電話をかけあうというシチュエーションがロマンティックなものに思えてしまうところがあり……
澪里も気高い人物だと思います(瑠波とは方向性が違うような気もしますが)
ⅴ 瑠波ルート
このシーンでは、隼人が瑠波に依存していることが顕著に表れているように思えます。他のルートにおいて、隼人は相手がどのような人物であるかによって、自分が何になるかを決めていたからこそ、このようなところが見えにくくなっていましたが、瑠波のルートでは、瑠波との関係が解消されつつあることで、隼人が何であるか・何になるかが宙づりになっています。何故ならば、相手によって、何になるかを決めていたからこそ、その相手がいなくなってしまうと、指針が失われてしまうからです。
あと、他のルートでは留保されてきた事柄がかえってくるという展開は『穢翼のユースティア』のティアルートを思い起こさせますね。(ちなみに、『穢翼のユースティア』も大好きな作品の一つです)
「人間は自立しない生き物だと言えます」
非常に示唆に富んでいます。他のルートにおいて、それぞれの人物(ヒロイン)たちは、他者との交流を通して、自身を変化させてきました。その意味では、彼女たちは自立していないとも言えます。しかし、隼人こそがこのことを顕著に表しているように思えます。先に確認しましたように、隼人は瑠波に依存しがちであるため、ヒロインたちが隼人に依存しているように見えて、その実、隼人こそがヒロインに依存しているという構図があると思います。
可愛い!!!!!!!!!!
素晴らしい。別の記事でも言及しましたが、行為の後、同居人にそのことがばれてしまい、気まずさに包まれてしまうというシチュエーションが本当に好ましい。何故かは分かりませんが
王国は呪いにもなりうるということですね。王国は弘実や芳乃を救ったが、一方で、光雄(瑠波の父親)には呪いをかけた。その意味で、王国は両義的なものなのだと思う。
「瑠波は王国を忘れ、僕は瑠波以外の全てを忘れ、ただの男と女になった。それが全てだった。」
『神聖にして侵すべからず』では、良いテキストがスッと差し込まれるので、本当に油断ならないですね(良い意味で)まさか、Hシーンで、このようなテキストを目にするとは思いませんでした。
改めて、スクショを見返していると、このあたりのアナロジーは完璧ですね。
一人の力では全てのものを救うことには限界がある。が、「王国」という共同体ならば、それは可能となるかもしれない。実際、王国の人々の力によって、会長は救われることになるわけですし……これについての解答も用意されているあたり、神が細部に宿っているというほかにないですね……素晴らしすぎる。
見返りを必要としない、救いの手は呪いになりうるという話。このあたりの話は『サクラノ詩』『ZYPRESSEN』でされていましたね。話はそれますが、あの章では草薙直哉の献身の側面が語られていて、個人的に好きですね(他にも、好きな理由はありますが)
「僕らは無力で小さく、墓は巨大で、世界はもっと巨大だった。」
これも良い。
感無量。『しろくまベルスターズ♪』もそうでしたが、それが「子どもの手すさび」であっても、そこには意義があるということがありありと描かれていて、完全にやられてしまいました。このように、物語の力を肯定してくれる話が好きなのだと思います。
3 後書き
ということで、『神聖にして侵すべからず』の印象的・好きなシーンの総括はこれで終わりとなります。書いていて、非常に楽しかったですし、書くにあたって、スクショを見返したことで新たな発見もありました。