『電波女と青春男』雑感

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電波女と青春男』は、入間人間/著・ブリキ/イラストによる日本のライトノベル、およびそれを原作とするメディアミックス作品[i] である。また、原作は電撃文庫から出版されており、全九巻から成る。

 

さて、本作品は、高校生の丹羽真が、両親の海外赴任から親元を離れ、叔母の藤和女々のもとで世話になるところから始まる。そして、藤和家には自身を「宇宙人」と騙る少女、藤和エリオがいた。真はエリオの奇怪な言動に当惑を覚えつつも、彼女を放っておくことができず、それに巻き込まれていく……

 

以上が『電波女と青春男 一巻』のあらすじとなる。

 

以下では、『電波女と青春男』への雑感を纏める。第一に、エリオの「宇宙人」とは何かを確認する。そして、第二に、何故、エリオは「宇宙人」であることを必要とするかを確認する。最後に、エリオにとっての「宇宙人」を否定することを確認し、これを結びとしたい。

 

1.「宇宙人」とは何か。

 

そもそも、宇宙人とは何か。それを確認するにあたって、エリオの背景への理解が必要となる。そのため、どのようにして、エリオは「宇宙人」となったのかを確認したい。

 

「六月。普通に下校するはずのあの子は気付いたら、十一月の海に浮かんでいた。この間の記憶と足取り、警察が調べたんだけど本当に何も分からなかったらしくて……少なくとも、エリオに、半年間の記憶がないことは証明されてるわ。あの子、簡単に言えば記憶喪失なのよ」[ii]

 

女々によれば、それまでのエリオは普通の高校生だったのだが、その事件を境にして、自分は「宇宙人」であると騙るようになった。つまり、彼女は元から「宇宙人」だったわけではなく、行方不明と記憶喪失という事件をきっかけに、「宇宙人」を騙るようになったと言える。

 

では、エリオにとっての宇宙人とは何か。

 

「昔から宇宙好きな子だったし、記憶がないっていう恐怖から逃避する先に、知識が豊富でごまかしの効きやすい宇宙を題材に選んだってことだと 私は思うの」

 

と、女々は語る。つまり、エリオにとっての「宇宙人」とは記憶喪失という穴を埋めるための逃避先と言えるだろう。

 

 

2.何故、エリオは宇宙人であることを必要とするか。

 

ここまでに、エリオにとっての「宇宙人」がどのようなものかを確認してきた。端的に言えば、「宇宙人」とは記憶の空白という不安からの逃避先と言えるだろう。では、何故、エリオは宇宙人であることを必要とするのだろうか。その答えについてはここまでの流れで明らかになっているところもある。先に確認したように、逃避先としての「宇宙人」はそれへの解答と言えるだろう。しかし、ここでは『電波女と青春男』の描写を取り上げ、そこでの酷薄な現実こそが「宇宙人」という逃避先の切実さを補強しているということを確認したい。

 

さて、話は『電波女と青春男 二巻』に移る。話が前後するが、諸々の事情から、真はエリオの「宇宙人」という幻想を否定し、彼女をただの地球人に戻した。そして、エリオは社会復帰への一歩を踏み出すことを決意する。エリオは社会復帰の一歩として、バイトを始めたいと宣言したのだった。真もこれには賛同し、エリオが社会復帰できるようにあれこれと手助けする。しかし、エリオを待っていたものは酷薄な現実だった。

 

「きみ、あれだよね。町中を布団被って歩いていた子の中身」「きみはねぇ。町の有名人だよねぇ。あんな恰好で歩けるなんて、度胸満点だと思うよ。うん。その割に、なんか慰安はビクビクしてるのはどうしてかなぁ」「でね、まぁ、ウチで働きたいってことなんでしょうけど あのさ、やっぱりさ、変な人を雇いたくはないでしょ?いや 君がね、お店を経営してると考えてごらんなさいよ。布団巻いてる人なんて嫌でしょ」[iii]

 

と、バイトの面接の試験官は語る。ここでの試験官の判断は「正しいか」という問題は置いておいて、経営者としての判断としては妥当なものに思える。しかし、その判断がエリオにとっての酷薄な現実であることは確かだ。確かに、「宇宙人」を騙り、「寄行」を繰り返したのはエリオだ。その意味で、これは因果応報とも言えるかもしれない。だが、このように、異質なものへの酷薄なまなざしは、「何故、エリオは宇宙人であることを必要としたのか」に示唆的だ。

 

ここで、もう一つの事例を挙げたい。エリオは当初の予定のように、バイトの面接を受けたところでは働くことは出来なかったが、女々の伝手もあって、町の駄菓子屋で働くことができるようになった。そのようななか、かつての同級生が訪れる……

 

「学校でのことを思い出してみなよ。ぶっちゃけエリオちゃんって頭おかしいし、あんま関わりたくないでしょ」[iv]

 

と、かつての同級生は語る。このように、かつての同級生は悪びれることもなく、カジュアルに他者への悪意を吐露する。これも、酷薄な現実だ。エリオは社会復帰を目標にして、駄菓子屋で働いているが、そのことは理解されることはなく、一種の営業妨害なのではないだろうかと言われる。もちろん、彼女の社会的な能力に難があることは事実であるのだろうが(それが事実として、何を言ってもよいかという問題はあるが)、ここにも、異質なものへの酷薄なまなざしがある。

 

纏めると、『電波女と青春男』の描写には、ある種の「乾き」が通底している。つまり、異質なものへの迫害のまなざしがそこにはあり、記憶喪失で異質なもののエリオにとって、それは酷薄な現実であるのかもしれない。だからこそ、エリオは宇宙人であることを必要とするのだろう。現実はあまりに酷薄だから、そこからの逃避先が必要なのだ。例え、それが真実ではないとしても。

 

 

3.宇宙人を否定すること

 

ここまでに、エリオにとっての宇宙人は何か、何故、エリオは宇宙人であることを必要とするのかを確認した。先に確認したように、『電波女と青春男』においては、異質なものへの迫害のまなざしにあふれた、酷薄な現実が描かれている。そして、エリオにとって、現実はあまりに酷薄だからこそ、その逃避先が必要なのだ。

 

では、エリオはこのままで良いのか。この問題は難しい。ある意味、エリオにとっての「宇宙人」は信仰のようなものだからこそ、そこに介入することを是とすることは微妙な問題だ。しかし、真はエリオの「宇宙人」という幻想に踏み込む。

 

「腹が立つのだ。宇宙人を後ろ向きに信じていることが、我慢ならない。それは順風とか満帆とか、そういった善意の方向よりも目につき、無視しきれない。神秘とは希望であるべきだった」[v]

 

丹羽真は語る。つまり、彼にとって、逃避のために「宇宙人」という幻想が利用されていることが我慢ならないのだろう。何故ならば、それは後ろ向きなものだから。かくして、真はエリオの幻想を否定しようとする。

 

では、どのようにして、真はエリオの幻想を否定するのか。

 

かつて、エリオは自分が「宇宙人」であると信じ、自転車に乗ったままで空を飛ぼうとした。が、彼女は空を飛ぶことができなかった。そして、真は、エリオと一緒に自転車で空を飛ぶことを提案し、飛べなかったら、自身が「宇宙人」であることを否定することを要求する。このように、真はかつての行いを反復することでエリオの幻想を否定しようとするが、ここには「他者の幻想と付き合うときの手続き」が示されているのではないだろうか。

 

「他者の幻想と付き合うときの手続き」とは何か。それを確認するにあたって、いくつかの部分を参照したい。

 

「見えないものに触れる方法は、信念しかない。そして、その信念を表すのに必要なのは、儀式と祈り」[vi]

 

と、エリオット(a)は語る。突き詰めると、彼の主張は「見えないもの=幻想に触れるための手続き」だ。ここで、事態を分かりやすくするためにエリオの「宇宙人」を挙げよう。エリオにとっての見えないものとは「宇宙人」だ。そして、彼女は「自分は宇宙人だ」という信念を持っている。ただし、信念はそのままでは外界に反映されない。だから、信念を表すには何らかの手続きが必要とされる。それは対象が「あるということにする」というものだ。エリオにとって、それは「宇宙人」としての発言・振る舞い、ひいては自転車での飛行がそれにあたるのだろう。

 

つまるところ、現実において、見えないものを取り扱うためには、何らかの手続きを必要とするということだ。その手続きがどのようなものであるかは対象ごとに異なるだろうが、エリオの場合、「宇宙人」としての振る舞いなどがそれにあたる。いずれにしても、対象が「あるということにする」ということは共通の手続きだ。そのため、エリオットの主張は「ごっこ遊び」の原理に通じるものとも言える。

 

さて、ここまでに「幻想に触れるための手続き」を確認してきたが、これらのことは「他者の幻想と付き合うときの手続き」にも関わってくる。

 

先に確認したように、信念はそのままでは外界に反映されない。だから、信念を表すには手続きが必要とされる。そして、この手続きは「他者の幻想と付き合うときの手続き」にも関わってくる。

 

だからこそ、真はエリオの幻想は偽りだと主張するのではなく、エリオの幻想に乗っかったうえで、それを否定しようとしたのだ。つまり、幻想を否定するためには、外部にいるままにそれを否定するのではなく、幻想に触れるための手続きに則り、相手の世界観に寄り添うことが必要となるのだ。

 

真はエリオの幻想を否定した。それは彼女のそれが後ろ向きなものであり、そのことが気に食わないという理由によるものだった。そのことから、彼の行いはエゴと言える。確かに、『電波女と青春男』においては、エゴのもとにささやかな幻想が否定されるところが描かれているが、そこには「他者の幻想と付き合うための手続き」が示されている。それはある種の倫理と言えるかもしれない。

 

 

後書き

 

ということで『電波女と青春男』の雑感でした。実のところ、全巻を読み終えたあとで書こうと思っていたのですが、ここまでの所感を纏めておきたい、何らかの文章を書きたいという理由があって、これを書くに至りました。また、ここでの感想は一巻~二巻を読み終えてのものなので、全巻を読み終えた後に別の感想を書くと思います(恐らく)

 

(a)  エリオットとはエリオの父親である。現在は家を出ている。

 

 脚注

 

[i] 『電波女と青春男』wikipedia

[ii] 入間人間電波女と青春男』P149

[iii]入間人間電波女と青春男 二巻』P84~85

[iv]入間人間電波女と青春男 二巻』P121

[v] 入間人間電波女と青春男』P217

[vi] 入間人間電波女と青春男 二巻』P295