『さびしがりやのロリフェラトゥ』感想

f:id:submoon01:20190524161654j:plain

 

『さびしがりやのロリフェラトゥ』はガガガ 文庫より出版された、シナリオ:さがら総、イラスト:黒星紅白ライトノベルである。本作品はいくつかのショートストーリーで構成されている。いずれのストーリーも視点人物は異なるものの、その背景設定は共有されている。では『さびしがりやのロリフェラトゥ』がどのような話であるかを理解するため、本作品の二章にあたる「常盤桃香と高貴なる不死者」の確認を進めたい。

 

常盤桃香は女子高校生だ。だが、彼女は「普通の」女子高校生ではない。何故ならば、彼女はライトノベルの作家だからだ。

 

しかし、現在の彼女はスランプに陥っていた。「ヘンテコ王子とナントカ姫」でデビューを遂げてから一年。彼女は新刊を出せずにいた。そもそも、書きたいものが書けないからだ。勿論、担当の編集がそのような彼女を放っておくこともなく、必死にサポートする。が、その結果はむなしく、ついには担当の編集に見捨てられた。

 

ライトノベルの作家としての在り方も失い、宙ぶらりんの彼女はある噂を耳にする。曰く、夜になると旧校舎には吸血鬼が現れるらしい。あまりに馬鹿馬鹿しい話。しかし、そこに縋る思いがあった。放課後、旧校舎を訪れ、そこで美しい吸血鬼(ノスフェラトゥ)に出会う……

 

以上が「常盤桃香と高貴なる不死者」の大まかなあらすじになる。さて、この後、常盤桃香と吸血鬼(ノスフェラトゥ)は交流を続けるのだが、ある時、もう一人の吸血鬼が現れる。それは学校の生徒を惨殺し、その死体を吊し上げる。そして、吸血鬼(ノスフェラトゥ)はそれらの死体を目にして、凄惨な笑みを浮かべるのだ。常盤桃香はそこに断絶を覚えた。ヒトと吸血鬼(ノスフェラトゥ)は分かりあえないのだと、かくして、常盤桃香と吸血鬼(ノスフェラトゥ)の交友関係は終わりを迎える。

 

しかし、話はこれで終わらない。物語の終盤にはある事実が明かされる。それは「常盤桃香は声を出すことが出来ないため、筆談でコミュニケーションをとっているということ」だ。確かに、「常盤桃香と高貴なる不死者」を確認してみると、そこに常盤桃香の発言は認められない。あくまで心中の独白があるだけだ。この事実は巧妙に伏せられていた。それは何故か?常盤桃香が信頼できない語り手だからか。恐らく、そうではない。彼女にとって、声を出せず、筆談でコミュニケーションをとるということは当たり前のことだったからではないだろうか?

 

本作品においては、一人称の形式が採用されている。「常盤桃香と高貴なる不死者」では常盤桃香を語り手に、彼女の思考・意識がどのようなものであるかが描かれていた。そして、重要なことはそこには語り手の意識が反映されているからこそ、語り手が意識していない事柄は描写されないのだ。つまり、そこには語り手にとっての「意識の盲点」がある。

 

『さびしがりやのロリフェラトゥ』では、この「意識の盲点」が重要な位置を占める。以下では、このことを前提に「シギショアラと恐るべきケダモノ」を確認したい。

 

さて、この話であるが、視点人物はシギショアラという吸血鬼(ノスフェラトゥ)に変わっているものの、シギショアラとは「常盤桃香と高貴なる不死者」の吸血鬼(ノスフェラトゥ)である。つまり、描かれている出来事はさきほどの「常盤桃香と高貴なる不死者」と同じと言える。では、恐るべきケダモノとは何を指しているのか?もう一人の吸血鬼なのだろうか。これにはいくつかの解釈がありえるように思えるが、ここでは恐るべきケダモノ=常盤桃香という解釈を取り上げたい。

 

何故、常盤桃香なのか?彼女はおとなしげな少女ではなかったのか。ここでは常盤桃香の意外な側面が明かされる。以下の場面を確認していただきたい。

 

「わたし、小さい女の子が裸になって無理やり手足を押さえつけられて、涙と鼻水と液体まみれになってぐちゃぐちゃにされるのが好きなんです」[i]

 

これは常盤桃香の発言である。曰く、彼女は幼げな女の子が好きらしく、著書においてもそのような内容が描かれているとのことだ。そして、実際の姿が幼女のシギショアラは彼女の嗜好にわずかな恐怖を覚える。ここで意識していただきたいことは「常盤桃香と高貴なる不死者」ではこのようなことはどこにも記されていなかったということだ。このことは「常盤桃香と高貴なる不死者」のみでは分からず、「シギショアラと恐るべきケダモノ」という別の視点の物語を経由することで明らかになった。つまり、ある視点人物にとっての「意識の盲点」はそれ自体では見えにくいが、別の視点を経由することで明らかになるのである。

 

例えば、三角柱をイメージしていただきたい。正面から見ると、それは長方形に見えるだろう。また、別の角度から見ても、長方形に見える。そして、もう一つの角度から見ると、三角形に見える。だが、それぞれの視点の情報を総合すると、三角錐という立体が浮かび上がってくる。

 

ここでは同型の構造がとられているのだ。つまり、それぞれの情報を集めることで物語の全体像が見えてくるようになっている。

 

さて、ここまでに確認してきたように、『さびしがりやのロリフェラトゥ』では、それぞれの物語の情報を集めることで、物語の全体像が見えてくるという構造がとられている。

 

では、全ての物語を経由するとどのような構造が見えてくるのか。それは「意識の盲点」があるからこそ、それぞれの主観では他者を理解することができず、それゆえにディスコミュニケーションが生じる というものだ。何とも、救いようがない。では、この断絶を乗り越えるための方法はないのだろうか?

 

恐らく、断絶を「完全に」乗り越えることは困難だ。だが、問題を軽くすることはできるかもしれない。

 

「物語というのはただそのためにあるんだ」[ii]

 

物語とは何のためにあるのか。これでは問いが漠然としすぎている。そこで焦点を先の「断絶を乗り越えるための方法」に絞る。

 

ここで、『さびしがりやのロリフェラトゥ』では「意識の盲点」によるディスコミュニケーションが描かれていたことを思い出していただきたい。彼らがそれぞれのディスコミュニケーションに気付いたのは事態が進みきってからのことだ。つまり、手遅れだ。しかし、読み手は『さびしがりやのロリフェラトゥ』を読み進めることで、彼らがどのような点ですれ違っているかに気付くことができる。何故ならば、視点人物はそれぞれの主観を抜け出せないが、読み手はそれぞれの主観を俯瞰的に眺めることができるからだ。

 

このことは、物語には視点人物・語り手・人称 などの装置があり、それらを駆使することによって、それぞれの主観は異なること、主観には「意識の盲点」があることへの自覚を促しうるという可能性を示唆している。

 

視点人物たちがそれぞれの主観を抜け出せないように、私たちも自身の主観を抜け出すことはできない。だが、物語を通して、それぞれの主観は異なるということを擬似的に経験することはできるかもしれない。そして、それによって、私たちの主観には相違があるということを認めること。これこそが、断絶を乗り越えるための一歩となるかもしれないのではないだろうか?

 

 

 

 

[i] 『さびしがりやのロリフェラトゥ』p117

[ii] 『さびしがりやのロリフェラトゥ』p269