『サクラの空と、君のコト』感想

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1 前書き

 

ということで、ひよこソフトの『サクラの空と、君のコト』を読み終えました。ルートごとの出来の違いが顕著だということは知っていたのですが、それでも、これほどに違いがあるとは思わず、読み進めているときに面食らいました。なかでも、千春ルートの内容はあまりに薄っぺらく、言及したいこともないため、ここでは省かせていただきます。また、佳奈多ルートにも不満があり、本稿では不満がぶちまけられています。不快に思われるかたもいらっしゃるかもしれませんので、ご注意ください。また、以下の内容にはネタバレが含まれております。

 

ⅰ 佳奈多ルート

 

さて、いきなりで申し訳ないですが、佳奈多ルートへの不満をぶちまけるところから始めたいと思います。まず、佳奈多ルートの出来は千春ルートと比較すると、相対的にマシです(あくまで、「相対的にマシ」というだけで、酷いことに変わりはない)では、何が駄目だったかと言えば、Hシーンの使い方が拙すぎる。『サクラの空と、君のコト』を未読のかたのため、背景設定を説明しますと、桜乃佳奈多(以下、佳奈多)は重大な病気を抱えており、物語の開始時点において、療養のために入院しています。が、涼(本作品の視点人物)たちはそのことを把握しておらず、佳奈多との交流を続けています。佳奈多ルートでは、涼と佳奈多は恋仲になり、Hすることになるのですが、その時点の涼は佳奈多の症状が重篤なものであることを把握していません。なので、そこでのHシーンにはまだ頷けます(ただし、彼女が病弱であることは把握しており、そのような彼女の身体を労わっているにもかかわらず、欲望をぶつけるところには疑問を抱きますが……)

 

問題はその後になります。涼たちは佳奈多の症状が重篤なものであることを知ります。曰く、移植手術をしなければ、彼女は長く生きられないとのこと。そして、移植手術のためのドナーも見つからず、現状を打開するための方法も見つからない。八方ふさがりです。しかし、そのようななか、一つの光が差し込みます。何と、涼の臓器が適応しており、彼の臓器を移植すれば、佳奈多は助かるかもしれないのです。そして、涼は恋人を助けるため、自身の臓器を提供することを決意します。ここで留意しておきたいことは、涼は自身を犠牲にして、佳奈多を助けようとしているのではなく、これからも二人で生きていくために臓器を提供しているということです。つまり、二人とも諦めていないわけです。にもかかわらず、手術前、二人はHします。例えば、どちらかの先が長くなく、死ぬことが約束されているため、最後の思い出のためにそうした行為をするのであれば、まだ頷けます。しかし、これからも生きていくことを誓い合ったあとでそのような行為に至ることは到底理解できませんでした。恋人たちの熱とはそういうものだと言われてしまえば、私には何も言えませんが……これらの展開には商業作品としての作為性、Hシーンを○○回入れなければならない~が透けており、モヤモヤさせられました。下手すれば、千春ルートよりも気に食わないですね(千春ルートはあまりの虚無だったので、不快に思うところも無かった)

 

ⅱ 怜那ルート

 

さて、次は、怜那ルートを取り上げていきましょう。怜那ルートを語るにあたって、欠かせないことは「彼女の可愛さ」です。彼女の可愛さには悶絶必死で(少なくとも、自分はそうでした)読み進めるなかで何度やられてしまったかが分かりません。ということで、彼女の可愛さを語っていきたいのですが、そのまえに、彼女のバックボーンを軽く紹介しておきます。

 

久我怜那、彼女は久我家の息女であり、将来は久我家を継ぐことを目標としています。所謂、野心家ですね。学園では生徒会長を務めており、その野心に違うことなく、圧倒的な働きぶりを示し、生徒からの支持も抜群です。

 

彼女の孤絶した在り方は美しく、それ自体も魅力的なのですが、個別ルートに入ると、また違った顔を見せてくれます。

 

確かに、彼女は孤絶しており、それゆえの美しさを持ち合わせていますが、一方で、彼氏(この場合、涼くん)にベタベタと甘えるような、しおらしさも持ち合わせています。それがまた可愛いんですよね。例を挙げましょう。

 

二人が付き合い始めてからのこと、怜那は公私の区別をつけるために学園では今まで通りに振る舞おうと提案します。しかし、昼休みになると、涼のもとに怜那が駆け込んできて、彼に抱き着きます。事情を聴けば、「充電……んー だって、涼、いい匂いするのよ」とのこと。「あの会長」がこんなにしおらしいところを見せてくるとやられてしまいますよ。また、生徒会室でイチャイチャしているところ、会長の親友、仁科が入ってきたとき、彼女のうろたえるところもとても可愛い。普段は泰然自若としていて、他者を寄せつけないような強さを発しているからこそ、恋人になってからのしおらしさが際立つんですよね……

 

EX) 

 

1 寝起きの怜那

 

実は朝に弱かったらしい。可愛すぎる。

 

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2 仁科にイチャついているところを見られる

 

戸惑うところも可愛い。 

 

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さて、怜那ルートの良さは彼女の可愛さの見せ方にもありますが、それだけでは終わりません。ここで、久我家の先代の当主(怜那にとってはお爺さん)が出てきます。彼は、涼と怜那との距離が近くなったことで、怜那の精神的な脆さが表層に出てきたこと この件(問題)についてはそっとしておいてほしいということを伝えます。確かに、個別ルートに入るまで、彼女は泰然自若としていて、孤絶した在り方をしていました。しかし、今や、涼に依存せずにはやっていけないほどに脆くなっています。先代の言葉をきっかけに、涼くんは冷や水をかけられたかのように目を覚まします。これだけならば、キャラクターの可愛さを堪能していたところ、別の人物が冷や水をぶっかけてきたというだけに思えてしまいますが、これの凄いところはキャラクターの可愛さをしっかりと見せつつ(実際に、私は彼女の可愛さにやられてしまいました。勿論、読者の反応を一意的に措定することはできないため、これを一般化するつもりはありません)それをシナリオの問題提起に接続してくるところです。そして、先代はこうも言っています。

 

感情という論理は、思考によって左右される。そして、強者の言葉はそれを可能とすると。

 

読み手(私)は会長の可愛さにやられていました。しかし、先代の言葉をきっかけにして、そのことへの違和感を覚えさせられます。奇しくも、読み手(私)自身が彼の言葉の正しさを実証してしまっているのです。怜那ルートのすさまじいところは、彼女の魅力を十全に見せつつも、そのことをシナリオの問題提起に接続し、しかも、それがキャラクター(先代)の言葉の正しさを立証してしまうように、物語の構造がデザインされていること、この一点に尽きるように思えました。勿論、これは私の反応に依拠したもので、これを一般化することは難しく、書き手のかたがそれを意識されていたかも不明です。しかし、ここに読み手の意識を誘導するかのように導線が引かれている。そう感じました。

 

ⅲ 彩ルート 

 

さて、最後は彩ルートです。個人的に、彩ルートには悩まされました。それと言うのも、彩ルートは彩ルート本編(便宜上そう表記します)とthe other side of confession(彩ルート本編をクリア後に追加される)の二つに分かれており、the other side of confession が自分の予想していたものとは異なる方向に吹っ飛んで行ったこともあって、当初は面食らってしまいました。正直なところ、理解しきれたとは言い難いですが、思うところを書き綴っていきます。

 

まず、彩ルート本編では言語の不完全性とコミュニケーションの難しさが打ち出されます。曰く、彩は「孤独に完成している」らしく、多数の人々がどのような世界を見ているかを理解できないそうです。まず、これをかみ砕いていくところから始めましょう。

 

多くの人々は言語を媒介にして、世界観を共有しています。そして、それらの圏内にいるものはそこでのルールに則り、コミュニケーションを行うことができます。が、彩は世界観の共有が出来ていないとのこと。にもかかわらず、彼女とのコミュニケーションは成立しているように見えます。それは何故か。これは彼女の先生(一条先生)が多数者にとってのルールを後付けしたことによるのでしょう。これによって、彩は多数者にとっての規則を学んだ。しかし、多数者にとっての規則には、少数者にとっての規則がありません。つまり、彼女が学んだもののなかに、彼女の世界の事柄を表すための規則がなかったのでしょう。だから、彼女は自身の内面についての問題を口にしようとするとき、それをどのように表していいかが分からなかった。何故ならば、彼女の学んだもの(多数者の規則)のなかには、それを表現するための語彙がなかったからです。

 

以上のことから、彩は独自の世界観を有しており、しかも、その世界観を表現するための語彙を持っていません。だからこそ、言語を介してのコミュニケーションでは、彼女の世界観に接近することは難しいと言えます。

 

このように、彩ルート本編では、言語の不完全性(正確には、言語にはグループのようなものがあり、別のグループに属するものはそれらを共約するための術を持たない~という話だと思う)が打ち出されていました。そして、当初はこの主題をもとに物語が展開されていくのだろうと思っていました。ある意味、それは間違っていないのでしょうが、話は明後日の方向に吹っ飛んでいきます。

 

The other side of confession で事態を大きく動きます。涼は事故にあったことをきっかけに、48時間以上の記憶を保持することができなくなります。所謂、前向性健忘症ですね。涼は、病気のハンデを埋めるため、メモ帳を利用します。覚えておかなければならないことをメモ帳に「記録」し、それを見返すことによって、記憶の連続性を擬似的に再現しているわけです。しかし、それはあくまで「記録」です。「記憶」ではありません。では、涼の「記憶」の一貫性を保つことはできないのか。そうではない。それこそが the other side of confessionの解答と言えるでしょう。では、どのようにして、「記憶」の一貫性を保つのか。

 

その鍵は彩にあります。涼が前向性健忘症を患ってからも、その傍には彩の存在がありました。メモ帳は涼の「記録」の一貫性を担保してくれますが、「記憶」の一貫性までは担保してくれません。しかし、彩こそが涼の「記憶」の一貫性を担保してくれます。原理的には、記憶を共有することは不可能です。そのため、私とあなたの記憶が一致することはありません。ですが、彼らの場合、彩にとっての「記憶」が涼にとっての「記憶」でもあるわけです。「記録」は「記憶」の代替手段にはなりえない。だが、涼には彩のほかに事故にあってからの時間をともにしてきたものがいない。その意味で、彩にとっての「記憶」は涼にとっての「記憶」と言えます。恐らく、彩が二人に関する事柄をメモすることを止めたのもこれによるのでしょう。何故ならば、外部記憶装置としての唯一性こそが「涼の記憶」=「彩の記憶」を担保しているからです。

 

確かに、人間は一つになることはできないかもしれない。彩ルート本編では、言語の不完全性が謳われ、それはそのことを浮き彫りにしていました。しかし、記憶の一貫性が損なわれた状態でならば、二人の人間が一つに近づくことはできるかもしれない。The other side of confession は「人間は一つになることはできない」という問題への一つの解答なのでしょう。ですが、私はそれに空恐ろしさを覚えます。一人の人間に自身の存在の全てをアウトソースするということ。確かに、涼は重篤な症状を抱えていて、他に術がないのかもしれませんが……

 

2 後書き

 

読み終えて、批評空間の点数にも納得がいきました。確かに、怜那ルートと彩ルートの出来には目を見張るものがありますが、あまりに出来が違いすぎます……とりあえず、怜那ルートを読めたことで満足しております(彩ルートは消化不良なところがある)