最近の趣味、Vの話~『神聖にして侵すべからず』、フィクションによせて~

最近、「ヴァーチャル」とは何かということを考えさせられる。ひとえに、所謂「V

Tuber(以下、V)」に嵌まっていることが大きい。本当のところを言えば、かつての自分はVに偏見を抱いていた。元々、実況・配信文化が好きで、Vに嵌まるための下地のようなものは出来上がっていた。にもかかわらず、それに触れることを忌避していた。今となっては、その理由は分からない。きっと、逆張りだったのだろう。そう思えてしまうほど、Vに嵌まってしまった。

 

かくして、Vの配信(または、アーカイブ)を見ながら、絵の練習をすることが多くなった。それに伴って、エロゲ、読書をする機会が少なくなってしまった。勿論、興味が無くなったわけではない。今でも、フィクションは好き……なのだと思う。けれど、自分はどうしようもないほどに要領が悪く、どうやら、複数の趣味を横断することができないらしい。

 

そういう経緯で、「ヴァーチャル」とは何かを考えることが増えた。では、そもそも、「ヴァーチャル」とはどういう意味なのか。辞書の意味を引用するならば、「仮想の」という意味になるのだろう。けれど、どこか、しっくり来ない。何故か。それは、自分のなかで、Vの背景には実在の人間がいるという了解がされつつも、一方で、キャラクターとしての質感を伴っているからだ。そう、確かに、彼らはそこに存在する。少なくとも、自分にとっては。

 

ここで、奇妙な符号が生まれた。以前、『神聖にして侵すべからず』というゲームについての記事を書いたことがある。その作品のなか、こういう発言がある。

 

「会長にもらった鉄の花があるだろ?あれは確かに、本物の花じゃないけど、美しい花ではあるだろ?」

「それと同じように、王国は確かに、いわゆる実態はないけれど、何か人を引き付けるものがあるんだよ」

 

 

「見えない奴らには見えないままでいいのだ。だって、王国は確かにここにあるのだから」

 

 

少しだけ、確認したい。王国とは、ファルケンスレーベン王国という作中内の架空の王国を指す。作品外のものたちにとってのものだけではなく、作品内のものたちにとってもそうだ。王国は法的な措置のもと、認められたものではない。そこにあるのは、かつて、王国があったという事実だけだ。実態はない。あくまで、猫庭(作中の架空の土地)の人々、ひいては、そのほかの人々たちのなかで「ある」と了解されたものだ。

 

それでも、それらの人々たちにとって、王国は確かに「ある」 たとえ、ごっこ遊びのようなものだろうが、そこにあるのだ。

 

ここに符号が見出された。ごっこ遊びという言葉に反感を抱くものもいるかもしれない。それでも、自分にとって、Vは、実在の人間とキャラクター、それぞれの質感が浮かび上がってくるものなのだと。見る人(全員が全員ではないと思う。フィクションと同様、それにどういう態度で触れるかは各々の裁量によるところなので)のあいだで、「ある」と了解されたものなのだと。

 

神聖にして侵すべからず』の瑠波ルートで語られる事柄は、どこか、フィクションの原理に通じるところがある。そう思っている。今の自分に、それを語りつくせるほどの知識も言葉もないが。

 

フィクションに触れるとき、私は、どこかで、それが無いものだということを了解している。無いと了解しつつも、あると「感じてしまう」そう、感じてしまうのだ。そう思えるほど、彼らには質感が伴っている。

 

私にとってのフィクションのキャラクターたち、ファルケンスレーベン王国の民にとっての王国、それらは区別できるものなのか。分からない。でも。近いものだと感じてしまう。

 

だからこそ、私にとって、瑠波ルートはフィクションの可能性を謳ったものだ。例え、一部の人々に後ろ指をさされるものであっても、誰かを救いうるのだと(同様に、呪いたりえるのだと)実在しないからこそ、為せることがあるのだと。

 

勿論、Vとフィクション。両者のあいだに、符号を見いだしてはいるが、全てが一致するわけではないだろう。Vの背景には実在の人間がいる。野暮ではあるが、そのことは事実なのだろう。

 

そのことがどういう違いを生むか。そこまでは分からない。けれど、そのことが実在の人間とキャラクターの奇妙な質感に繋がっている。そういう感覚がある。

 

今の自分とかつての自分、向いている方向は違えど(恐らく)、地続きなところもあるのだろう。