『中二病でも恋がしたい!』七宮智音という在り方 

前書き

 

考えを詰め切れていないところがありますが、書いておかないと忘れてしまいそうなので

 

 

 

中二病とは何か。この問いに対して、いくつかの答えが与えられるだろう。ここでは、『中二病でも恋がしたい!』の作中人物たちの姿から、その輪郭を捉えていきたい。

 

本作品には、元(微妙なところではある)中二病患者を含め、何人かの中二病患者が登場する。彼らに共通している点は何か。それは、自分は特別な存在である と思いこんでいることだ。ここで重要なことは彼らの信念が妄想であるかどうかではない。

 

中二病とは、ここではないどこか、ありえたかもしれない自分への憧れに根差しているのではないかということだ。

 

何故か。それは、先述したように、彼らが自分は特別な存在であると「思いこんでいる」からだ。このことは、実際には、彼らは特別な存在ではないことを示している。より正確に言えば、彼らの認識と他者の認識のあいだにはギャップがある。

 

そして、いささか、乱暴な言い方になるかもしれないが、憧れという感情はここにはないものに向けられるものなのではないだろうか(勿論、ここにあることに気付いていないという可能性もある)

 

ゆえに、このギャップこそが、遠くのもの(ここではないどこか、ありえたかもしれない自分)への憧れの証左と言えるのではないだろうか。

 

さて、本作品では、七宮智音というキャラクターが登場する。彼女も中二病患者の一人だ。かつて、中学時代、富樫勇太と智音は友人だった。勇太は彼女の姿に憧れ、中二病患者となり、行動をともにした。やがて、智音は勇太への恋心を自覚する。それと同時に、遠くのものへの憧れを失いつつあること。中二病から覚めつつあることに気付く。恋心か中二病か。智音は中二病を、魔法魔王少女で在り続けることを選んだ。

 

だが、高校生となり、六花と恋人関係になった勇太と再会する。そして、六花の姿を見て、智音はありえたかもしれない自分の可能性を垣間見、閉じ込めたはずの恋心を自覚する。

 

六花も中二病患者だ。にもかかわらず、勇太の傍にいる。それはありえたかもしれない自分で、そのことが智音を苦しめる。

 

さて、智音の苦悩は、中二病の根底にあるもの、ここではないどこか、ありえたかもしれない自分への憧れと通底している。可能性と現実のギャップ。これこそが、ここでの問題と言えるのではないだろうか。

 

では、可能性と現実のギャップ。この問題とどのように向き合えばいいのか。

 

七宮智音は決断する。かつて、富樫勇太と共に追い求めた、暗炎龍を自身の手で打ち倒すことを。

 

勿論、暗炎龍はいない。むしろ、彼女が戦うべき相手は恋敵の六花なのではないか。

 

そうではない。きっと、彼女の中で、心は既に定まっている。魔法魔王少女で在り続けるという思いは揺らいでいない。それでも、彼女が苦悩するのは、ありえたかもしれない自分を幻視してしまったからだ。

 

そう、幻視なのである。その憧れは彼女のなかにあるものであって、外にあるものではない。だからこそ、彼女が戦うべき相手は六花ではなく、己のなかにある、かつて、富樫勇太と共に追い求めた、暗炎龍という名の亡霊なのだ。

 

ありえたかもしれない自分。けれど、現実にはそうではない。そのギャップに悩まされることはある(少なくとも、自分は何度かあった)

 

七宮智音という在り方は、可能性と現実のギャップにどのように向き合えばいいか。その一端を示しているのではないだろうか。

 

後書き

 

中二病と七宮の接続が強引かもしれない。もう少し考えてみます。