『Summer Pockets』 フィクションの夏、ノスタルジーの袋小路

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夏休みと言えば、どんなものを思い浮かべるだろうか。友人と遊ぶ、虫取り、かき氷、駄菓子屋など。『Summer Pockets』においては、そのような夏の風景が描かれていた。しかし、自分は、現在に至るまで、そうした夏を過ごすことがなかった。ゆえに、この作品の夏の風景に「嘘らしさ」を感じた。

 

だが、それは嘘らしいものでありながら、どこかで見たことがあるような。そんな感覚を覚えた。そう、フィクションのなかの夏だ。具体的な作品が思い浮かんだわけではない。ただ、これまでに触れてきた作品のなか、そうして風景があったような。そして、自分もそれを体験してきたかのような、そんな錯覚を覚えてしまった。ある種のノスタルジーだ。

 

だからだろうか。自分は、この作品の舞台。鳥白島に居心地のよさを感じていた。気の置けない友人たちとの時間。そんな時間が続いてほしい。そう思った。

 

けれど、そうしてはいられなかった。

 

本作品の視点人物、鷹原羽依里。かれは、ある事情があって、島に逃げてきた。所謂、逃避行だ。そして、うみ。彼女も特別な事情を抱えて、この島に逃げてきた。

 

自分もそうかもしれない。フィクションに触れるとき、どこか遠くの世界に触れたい。そんな気持ちがある。だから、彼らに共感した。

 

彼らも、この夏が続いてほしい。そう願った。けれど、同時に、彼らは逃げてたくないとも思った。

 

この時間がずっと続いてほしい。きっと、永遠への渇望はこれに限った話ではない。

 

だが、永遠への渇望には矛盾がある。もし、永遠が実現された場合。時間という概念は意味をなすのだろうか。恐らく、時間というものが意味をなさなくなったなら、永遠への渇望という価値が損なれる。何故なら、その価値は時間というものに支えられているから。この時間がずっと続いてほしいという思いは、それが続かないからこそ、意味をなすものだ。

 

そう、鏡子さんが語るように、過去に戻れる力があるとすると、過去や未来の境目がなくなってしまい、どこにもいけなくなってしまうのである。

 

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うみ、しろは は意識を過去に飛ばすための力を持っている。彼女たちは、酷薄な現在を受け入れるよりも、楽しかった時間に戻ることを選択してしまった。ノスタルジーのなかに浸ることを。そうして、この世界の時間の環は閉じてしまう。

 

が、永遠のなかにおいて、永遠への渇望は価値を損なう。どこかで、この環を終わらせなければならない。

 

Summer Pockets』では、フィクションの夏へのノスタルジーが描かれると同時に、そこに内在する危うさ。つまり、ノスタルジーが袋小路に繋がりうることも描かれていた。

 

そう、いつかは現実に帰らなくてはならない。何故なら、夏休みは終わりがあるからこそ、夏休みたりえるように、物語も終わりがあるからこそ、物語たりえるのだから。

 

では、現実に帰らなくてはならないとき、物語での経験に意味はあるのか。

 

きっとあるはずだ。紬ルートで描かれていたように、終わりがあるとしても、そこには意味があるはずなのだから。

 

そして、夏が終わり、秋が訪れたとしても、来年の夏があるように。また、鳥白島を訪れることができるように。一つの物語を読み終えても、そこに帰ることができるはずだ。そう、羽根を休めるために。