『Angel Beats!』どうしようもなく、過酷だった生を肯定すること

f:id:submoon01:20200414013658p:plain

 

Angel Beats!』では、死後の世界で、学園生活を送る人々の姿が描かれている。そして、彼らは未練を抱えている。

 

例えば、登場人物の一人、ゆりは裕福な家庭に生まれ育ち、幸せな日々を送っていた。が、ある日、その日々は崩れ落ちる。強盗が現れた。強盗は、ゆりに告げる。自分たちが気に入るものを持ってくることができなかったら、ゆりの下の子たちを一人ずつ殺していくと。そうして、彼女は妹たちを救うことができなかった。

 

かくして、ゆりは死後の世界を訪れた。妹たちを救うことができなかったという未練を抱えたまま。このように、それぞれが過酷な人生を送り、この世界を訪れている。そして、この世界で抗っている。過酷な生を齎した神に。この世界で生き続けることで。

 

では、彼らはこの世界で生き続けるのか。そうではない。彼らには未練がある。その未練が解消されれば、この世界を去るのである。

 

永遠の生。確かに、未練が解消されることがなければ、この世界で生き続けることは可能かもしれない。だが、彼らはそうしなかった。それぞれが、自らの意志で、自らの人生と向き合い、そのうえで、何らかのかたちで(彼らはそれぞれに異なる過酷を抱えていた。このような世界が成立している時点で、この世に過酷がありふれていることは分かる。しかし、一方で、過酷は固有性をはらんでいる。ゆりの過酷と音無の過酷はまた別のものだ。それゆえに、過酷を肯定できるのは本人でしかない。そして、そのかたちも異なる。恐らく、一致するのはそれを肯定したという事実だけで)、それを肯定している。

 

確かに、この世界には過酷がありふれている。そして、生命はこの過酷な世界に産み落とされてしまう。どうしようもなく。何故なら、生命を生み出すものと生み出されるもののあいだには非対称性がつきまとうからだ(良い意味でも悪い意味でも。少なくとも、自分はそう思う)

 

この物語は、今、過酷を抱えるものを救うとは限らない(何故なら、その過酷を肯定できるのは当人だけだから)けれど、この物語のなかで、少なくとも、彼らはその過酷な生を肯定することができた。どうしようもなく、そんな生を送ってしまったが(当人の意志、環境、さまざまなものが絡まりあって)それでも、肯定することができた。自らの意志で。

 

現世の生を肯定するのではなく、あくまで、個々人(『Angel Beats!』のキャラクター) の生の肯定に留まること。そこにこそ『Angel Beats!』の倫理があるのではないだろうか。