『相思相愛ロリータ』感想

f:id:submoon01:20190528233727p:plain

 

「初めて母さんのことを母さんではないと感じたのは、その涙を見たときだった」『相思相愛ロリータ』

 

こどもにはこどものせかいがあるように、大人には大人の世界がある。例えば、彼が生まれるまえ、父さんと母さんは「父さん」「母さん」ではなく、ただの男と女だったかもしれない。*1 そこには家族であったとしても、立ち入れないものがあるのだろう。母さんの涙を見たとき、彼はそれを感じとった。

 

一度、そのことが意識されてしまうとこれまでの関係ではいられなくなってしまう。彼にとっての母さんは目のまえの母さんだ。しかし、その背景にはいくつもの「母さん」が横たわっていて、それらに触れることはかなわない。圧倒的な断絶。だから、彼はしっかりとしなければならないと思ったのだろう。もはや、母さんに甘えているだけではいられなくなったから。

 

このように、ふとしたことで、近しいと思われた人は遠ざかってしまう。彼の場合、それは母さんだった。そして、まこも似たようなものを抱えていたのだろう。

 

彼らは互いの孤独を埋めあうようにつながった。きっと、そこには一切の偽りもなかったのだろう。もちろん、本当にそうであったのかは分からない。何故ならば、おかくんがまこの本心を知ることができないように、読み手にも、まこの本心は分からないからだ。だが、彼らは嘘≠建前を並べ立てることは、人と人との距離を遠ざけることを知っていたのではないだろうか。おかくんが母さんのことを母さんでないと感じたように、一度、本音と建前が意識されてしまうと、そこには遠慮が生じてしまう。遠慮が生じてしまうと、お互いを預けることはできなくなる。

 

きっと、彼らはそうありたくはなかった。何故ならば、遠慮が生じてしまうと、お互いがお互いを遠ざけてしまう。孤独を埋めるために繋がったにもかかわらず、そこでお互いを遠ざけてしまう。これでは本末転倒だ。だから、彼らのあいだに嘘はなかった。

 

「帰る。そう。帰るんだ。自分の部屋に。でも、そんな場所に帰りたいわけじゃなく、帰る場所なんて、もうとうに失くして」『相思相愛ロリータ』

 

帰る場所がある とはどういうことか。住居があれば、それが帰る場所になるのだろうか?恐らく、そうではない。住居があったとして、あくまで、それは生活するための拠点だ。心の乾きを満たすとは限らない。

 

英語には「home」「house」という語句がある。いずれも「家」を意味する語句であるが、意味のニュアンスは異なる。「house」は建物・住居自体を指すための用いられることが多いが、「house」は帰る場所・心の拠り所を指すために用いられることがある。*2 まさに先の問題とはこれのことだ。「house」があるとしても、それが「home」であるとは限らない。だからこそ、おかくんは「そんな場所に帰りたいわけじゃなく」と漏らしたのだろう。

 

しかし、おかくんとまこ、二人が日々を重ねるなか、彼らにとっての家の意味が変わってきた。

 

「まこはね。これから行くところなんだよ。帰るんじゃないの」

 

まこにとって、「house」とは施設のことだ。しかし、おかくんのように、「house」があるとして、それが「home」たりえるとは限らない。いつしか、おかくんの家は二人にとっての「home」となっていたのだ。

 

ある意味、おかくんもまこちゃんも家庭環境の不和を抱えている(いた)そんな二人が寄り添い、孤独を埋めていく。「home」が「house」となっていく。だから、これは二人が家族になるまでの話なのだろう。

 

*1 「父さん」「母さん」を一意的に男と女と規定することが諸々の複雑な問題に抵触しそうだったので、「かもしれない」と言葉を濁しました。

*2 間違っていたら、すみません……

 

補遺 所謂「母性ロリ」のすさまじさの片鱗というものに触れた。無尽の赦しは底なしの空虚さから溢れ出てくるのだな と思った。「他になにもないから」と言わしめてしまうほど、彼女の環境は壮絶なものであったのかもしれない。鬱。