『相思相愛ロリータ』感想

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「初めて母さんのことを母さんではないと感じたのは、その涙を見たときだった」『相思相愛ロリータ』

 

こどもにはこどものせかいがあるように、大人には大人の世界がある。例えば、彼が生まれるまえ、父さんと母さんは「父さん」「母さん」ではなく、ただの男と女だったかもしれない。*1 そこには家族であったとしても、立ち入れないものがあるのだろう。母さんの涙を見たとき、彼はそれを感じとった。

 

一度、そのことが意識されてしまうとこれまでの関係ではいられなくなってしまう。彼にとっての母さんは目のまえの母さんだ。しかし、その背景にはいくつもの「母さん」が横たわっていて、それらに触れることはかなわない。圧倒的な断絶。だから、彼はしっかりとしなければならないと思ったのだろう。もはや、母さんに甘えているだけではいられなくなったから。

 

このように、ふとしたことで、近しいと思われた人は遠ざかってしまう。彼の場合、それは母さんだった。そして、まこも似たようなものを抱えていたのだろう。

 

彼らは互いの孤独を埋めあうようにつながった。きっと、そこには一切の偽りもなかったのだろう。もちろん、本当にそうであったのかは分からない。何故ならば、おかくんがまこの本心を知ることができないように、読み手にも、まこの本心は分からないからだ。だが、彼らは嘘≠建前を並べ立てることは、人と人との距離を遠ざけることを知っていたのではないだろうか。おかくんが母さんのことを母さんでないと感じたように、一度、本音と建前が意識されてしまうと、そこには遠慮が生じてしまう。遠慮が生じてしまうと、お互いを預けることはできなくなる。

 

きっと、彼らはそうありたくはなかった。何故ならば、遠慮が生じてしまうと、お互いがお互いを遠ざけてしまう。孤独を埋めるために繋がったにもかかわらず、そこでお互いを遠ざけてしまう。これでは本末転倒だ。だから、彼らのあいだに嘘はなかった。

 

「帰る。そう。帰るんだ。自分の部屋に。でも、そんな場所に帰りたいわけじゃなく、帰る場所なんて、もうとうに失くして」『相思相愛ロリータ』

 

帰る場所がある とはどういうことか。住居があれば、それが帰る場所になるのだろうか?恐らく、そうではない。住居があったとして、あくまで、それは生活するための拠点だ。心の乾きを満たすとは限らない。

 

英語には「home」「house」という語句がある。いずれも「家」を意味する語句であるが、意味のニュアンスは異なる。「house」は建物・住居自体を指すための用いられることが多いが、「house」は帰る場所・心の拠り所を指すために用いられることがある。*2 まさに先の問題とはこれのことだ。「house」があるとしても、それが「home」であるとは限らない。だからこそ、おかくんは「そんな場所に帰りたいわけじゃなく」と漏らしたのだろう。

 

しかし、おかくんとまこ、二人が日々を重ねるなか、彼らにとっての家の意味が変わってきた。

 

「まこはね。これから行くところなんだよ。帰るんじゃないの」

 

まこにとって、「house」とは施設のことだ。しかし、おかくんのように、「house」があるとして、それが「home」たりえるとは限らない。いつしか、おかくんの家は二人にとっての「home」となっていたのだ。

 

ある意味、おかくんもまこちゃんも家庭環境の不和を抱えている(いた)そんな二人が寄り添い、孤独を埋めていく。「home」が「house」となっていく。だから、これは二人が家族になるまでの話なのだろう。

 

*1 「父さん」「母さん」を一意的に男と女と規定することが諸々の複雑な問題に抵触しそうだったので、「かもしれない」と言葉を濁しました。

*2 間違っていたら、すみません……

 

補遺 所謂「母性ロリ」のすさまじさの片鱗というものに触れた。無尽の赦しは底なしの空虚さから溢れ出てくるのだな と思った。「他になにもないから」と言わしめてしまうほど、彼女の環境は壮絶なものであったのかもしれない。鬱。

『さびしがりやのロリフェラトゥ』感想

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『さびしがりやのロリフェラトゥ』はガガガ 文庫より出版された、シナリオ:さがら総、イラスト:黒星紅白ライトノベルである。本作品はいくつかのショートストーリーで構成されている。いずれのストーリーも視点人物は異なるものの、その背景設定は共有されている。では『さびしがりやのロリフェラトゥ』がどのような話であるかを理解するため、本作品の二章にあたる「常盤桃香と高貴なる不死者」の確認を進めたい。

 

常盤桃香は女子高校生だ。だが、彼女は「普通の」女子高校生ではない。何故ならば、彼女はライトノベルの作家だからだ。

 

しかし、現在の彼女はスランプに陥っていた。「ヘンテコ王子とナントカ姫」でデビューを遂げてから一年。彼女は新刊を出せずにいた。そもそも、書きたいものが書けないからだ。勿論、担当の編集がそのような彼女を放っておくこともなく、必死にサポートする。が、その結果はむなしく、ついには担当の編集に見捨てられた。

 

ライトノベルの作家としての在り方も失い、宙ぶらりんの彼女はある噂を耳にする。曰く、夜になると旧校舎には吸血鬼が現れるらしい。あまりに馬鹿馬鹿しい話。しかし、そこに縋る思いがあった。放課後、旧校舎を訪れ、そこで美しい吸血鬼(ノスフェラトゥ)に出会う……

 

以上が「常盤桃香と高貴なる不死者」の大まかなあらすじになる。さて、この後、常盤桃香と吸血鬼(ノスフェラトゥ)は交流を続けるのだが、ある時、もう一人の吸血鬼が現れる。それは学校の生徒を惨殺し、その死体を吊し上げる。そして、吸血鬼(ノスフェラトゥ)はそれらの死体を目にして、凄惨な笑みを浮かべるのだ。常盤桃香はそこに断絶を覚えた。ヒトと吸血鬼(ノスフェラトゥ)は分かりあえないのだと、かくして、常盤桃香と吸血鬼(ノスフェラトゥ)の交友関係は終わりを迎える。

 

しかし、話はこれで終わらない。物語の終盤にはある事実が明かされる。それは「常盤桃香は声を出すことが出来ないため、筆談でコミュニケーションをとっているということ」だ。確かに、「常盤桃香と高貴なる不死者」を確認してみると、そこに常盤桃香の発言は認められない。あくまで心中の独白があるだけだ。この事実は巧妙に伏せられていた。それは何故か?常盤桃香が信頼できない語り手だからか。恐らく、そうではない。彼女にとって、声を出せず、筆談でコミュニケーションをとるということは当たり前のことだったからではないだろうか?

 

本作品においては、一人称の形式が採用されている。「常盤桃香と高貴なる不死者」では常盤桃香を語り手に、彼女の思考・意識がどのようなものであるかが描かれていた。そして、重要なことはそこには語り手の意識が反映されているからこそ、語り手が意識していない事柄は描写されないのだ。つまり、そこには語り手にとっての「意識の盲点」がある。

 

『さびしがりやのロリフェラトゥ』では、この「意識の盲点」が重要な位置を占める。以下では、このことを前提に「シギショアラと恐るべきケダモノ」を確認したい。

 

さて、この話であるが、視点人物はシギショアラという吸血鬼(ノスフェラトゥ)に変わっているものの、シギショアラとは「常盤桃香と高貴なる不死者」の吸血鬼(ノスフェラトゥ)である。つまり、描かれている出来事はさきほどの「常盤桃香と高貴なる不死者」と同じと言える。では、恐るべきケダモノとは何を指しているのか?もう一人の吸血鬼なのだろうか。これにはいくつかの解釈がありえるように思えるが、ここでは恐るべきケダモノ=常盤桃香という解釈を取り上げたい。

 

何故、常盤桃香なのか?彼女はおとなしげな少女ではなかったのか。ここでは常盤桃香の意外な側面が明かされる。以下の場面を確認していただきたい。

 

「わたし、小さい女の子が裸になって無理やり手足を押さえつけられて、涙と鼻水と液体まみれになってぐちゃぐちゃにされるのが好きなんです」[i]

 

これは常盤桃香の発言である。曰く、彼女は幼げな女の子が好きらしく、著書においてもそのような内容が描かれているとのことだ。そして、実際の姿が幼女のシギショアラは彼女の嗜好にわずかな恐怖を覚える。ここで意識していただきたいことは「常盤桃香と高貴なる不死者」ではこのようなことはどこにも記されていなかったということだ。このことは「常盤桃香と高貴なる不死者」のみでは分からず、「シギショアラと恐るべきケダモノ」という別の視点の物語を経由することで明らかになった。つまり、ある視点人物にとっての「意識の盲点」はそれ自体では見えにくいが、別の視点を経由することで明らかになるのである。

 

例えば、三角柱をイメージしていただきたい。正面から見ると、それは長方形に見えるだろう。また、別の角度から見ても、長方形に見える。そして、もう一つの角度から見ると、三角形に見える。だが、それぞれの視点の情報を総合すると、三角錐という立体が浮かび上がってくる。

 

ここでは同型の構造がとられているのだ。つまり、それぞれの情報を集めることで物語の全体像が見えてくるようになっている。

 

さて、ここまでに確認してきたように、『さびしがりやのロリフェラトゥ』では、それぞれの物語の情報を集めることで、物語の全体像が見えてくるという構造がとられている。

 

では、全ての物語を経由するとどのような構造が見えてくるのか。それは「意識の盲点」があるからこそ、それぞれの主観では他者を理解することができず、それゆえにディスコミュニケーションが生じる というものだ。何とも、救いようがない。では、この断絶を乗り越えるための方法はないのだろうか?

 

恐らく、断絶を「完全に」乗り越えることは困難だ。だが、問題を軽くすることはできるかもしれない。

 

「物語というのはただそのためにあるんだ」[ii]

 

物語とは何のためにあるのか。これでは問いが漠然としすぎている。そこで焦点を先の「断絶を乗り越えるための方法」に絞る。

 

ここで、『さびしがりやのロリフェラトゥ』では「意識の盲点」によるディスコミュニケーションが描かれていたことを思い出していただきたい。彼らがそれぞれのディスコミュニケーションに気付いたのは事態が進みきってからのことだ。つまり、手遅れだ。しかし、読み手は『さびしがりやのロリフェラトゥ』を読み進めることで、彼らがどのような点ですれ違っているかに気付くことができる。何故ならば、視点人物はそれぞれの主観を抜け出せないが、読み手はそれぞれの主観を俯瞰的に眺めることができるからだ。

 

このことは、物語には視点人物・語り手・人称 などの装置があり、それらを駆使することによって、それぞれの主観は異なること、主観には「意識の盲点」があることへの自覚を促しうるという可能性を示唆している。

 

視点人物たちがそれぞれの主観を抜け出せないように、私たちも自身の主観を抜け出すことはできない。だが、物語を通して、それぞれの主観は異なるということを擬似的に経験することはできるかもしれない。そして、それによって、私たちの主観には相違があるということを認めること。これこそが、断絶を乗り越えるための一歩となるかもしれないのではないだろうか?

 

 

 

 

[i] 『さびしがりやのロリフェラトゥ』p117

[ii] 『さびしがりやのロリフェラトゥ』p269

『白いカラス』

1  前書き

 

こういうものがあるらしく、良い機会なので、自分もやってみました。実のところ、創作と言えるものに手を出したことがなく、かなり見苦しいものになっていると思いますが………

 

所要時間:50分

 

 

昨日午前、都内某所において突如、カラスに後頭部を襲撃される。とっさに振り向いたが、相手は変哲のない黒いカラスで、こちらを見て「アホー」と嘲ったなり。

 頭に手をやって傷を確かめる。幸いにして外傷はナシ。

 だが次の瞬間、愚かなオレは愕然と気づいた。さっきまで脳内に充満していた29日〆切短編のアイデアがカラスの一突きによって無惨にも流れ出していたことを。

 カラス! オレの小説を返せ。

 

 

覆水盆に返らず。零れたものが元に戻らないように、俺の記憶もここにはもうない。

 

数日前、会心のアイデアを閃き、そのアイデアの斬新さに歓喜した。だが、肝心の記憶がないとなってはどうしようもない。底なしの空虚さに包まれ、俺は途方に暮れる。照り付ける日差しは鋭く、大粒の汗が頬を伝う。次第に、俺の精神は摩耗していった。

 

しかし、このままでは埒があかない。摩耗した精神を奮わせ、顔を上げると、奇妙なものが目に飛び込んできた。それは白いカラスだった。ポールの縁に立ち、こちらに視線を向けている。次の瞬間、カラスが純白の翼を広げた。今、まさに飛び立たんとしている。俺はその美しさに見入ってしまった。そして、ある事に気が付く。そのカラスはどんどんとこちらに近づいているのだ。

 

数十メートルは離れていたはずが、数メートルほどの距離に近づいてきている。先ほどの「黒いカラス」を思い出し、カラスの接近を避けるべく、身体を動かそうとするも、言うことを聞いてくれない。今や、カラスは目と鼻の先だ。思わず、目を瞑る。瞬間、額に衝撃が走った。

 

身体が傾く。重力に従い、俺の体がゆっくりと倒れていくのを感じる。咄嗟に右腕を伸ばす。ゴツゴツとした感触、アスファルトだ。真夏の日差しで熱されたアスファルトに手をつき、態勢を立て直す。そして、額の傷を確認する。が、そこには何の外傷もなかった。あれほどの衝撃があったにもかかわらず、痕跡すらも残されていない。

 

ふと、辺りを見回すとあの「白いカラス」はどこにもいなかった。まるで、狐につままれたようだ。ぼんやりとした意識のまま、俺は立ち上がる。

 

刹那、膨大なイメージが俺の頭に流れ込んできた。『最初の激動の瞬間、ちょうど大きな缶切りであけられたように、ロケットの横腹がばっくりと裂けた。』これは……何だ?『刺青の絵は、一つひとつ順番に、一、二分ずつ、動き出したのである。』いくつもの光景が脳裏を駆け巡る。『父さんの宇宙船は太陽に落ちたのだ。』まるで、イメージの奔流だ。『おやすみなさい、と妻が言った。』イメージが収束する。不思議なことに、俺は落ち着きを取り戻していた。先ほどの空虚さが嘘のように、思考が澄んでいる。そして、失われたはずのアイデアは思わぬかたちで返ってきた。イメージの奔流は天啓だ。それはひとつの物語のビジョンを示していた。そう、タイトルは『刺青の男』……

 

後書き

 

ということで『白いカラス』でした。白はプラスイメージ、黒はマイナスイメージなモチーフで使われることが多いかもしれませんが(実際は知りません)、今回はそのイメージを逆手にとろうと思いました。白=福音・幸福 であるとしても、それは誰かの不幸のもとに成り立つものではないか みたいなことを書きたかった……ですが、明らかに分かりづらいですね……次は伝わるようなものを書きたいなぁと思うところ。

何故、諌見隼人は騎士で在り続けたのか 『神聖にして侵すべからず』を読む


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ファルケンスレーベン王国。第63代。ルファ・ファルケンスレーベン」

「鷹騎士団団長諌見隼人は、ファルケンスレーベン王国第63代ルファ・ファルケンスレーベンの正当なる王位を認め」

「その王冠に生涯忠誠を捧げる」『神聖にして侵すべからず』エピローグ『女王陛下の王国』

 

晴華瑠波は王国の女王、諌見隼人の瑠波の騎士だ。幼少期のある出来事をきっかけに、彼らの関係は始まった。瑠波の母親は早逝であった。母を亡くし、瑠波は悲しみは暮れる。隼人はそのような彼女を見ることに耐えられず、瑠波を励まそうとするも、彼女が変わることはなかった。彼女は母の姿を間近に見続けてきた。だからこそ、王国が衰退しつつあることも、母がはりぼての女王であることにも気が付いていた。王国を無邪気に夢見ることはできなかったのだ。それでも、隼人は王国はここにあると主張する。確かに、王国にはかつての栄光はないかもしれない。しかし、(隼人の母)、隼人、瑠波の三人がいる。隼人が騎士で、芳乃(隼人の母親)が宰相、瑠波が女王。ちっぽけかもしれないが、ここに王国はあるのだと。かくして、瑠波と隼人は女王と騎士になる。

 

さて、瑠波ルートにおいて、瑠波と隼人は恋仲になる。そして、ついにはファルケンスレーベン王国の王位を正統に継承することを宣言する。ここで、瑠波の母親と父親のことを思いだしたい。生前、瑠波の母親は女王で、瑠波の父親は殿下であった。このことを踏まえると、何故、隼人は殿下とならずに騎士で在り続けたのかという疑問が生じてくる。勿論、恋仲になったとして、かつての父と母のように女王・殿下の関係にならなければならないということはない。しかし、隼人が騎士で在り続けたことには明確な背景があるように思われる。以下では、そのことの確認を進めていく。

 

「何故、隼人は殿下とならずに騎士で在り続けたのか」このことの確認を進めるにあたって、諌見隼人がどのような人物であるかを確認したい。何故ならば、彼の選択の意図を理解するためには彼がどのような人間であるかを理解することが必要だからだ。

 

諌見隼人は王国の騎士だ。しかし、騎士と言っても、実際に王国を守るための役についているわけではなく、王国の雑事(掃除、洗濯、料理など)を担当している。彼はそつがなく、諸々の事柄を着実にこなしていく。そのような彼であるが、苦手とするものがある。それは自身の将来のことを考えることだ。以下の場面を確認していただきたい。

 

「言葉に詰まった。将来のことなんて考えるのは、僕の最も苦手とするところだったからだ。」『神聖にして侵すべからず』第六話『女王陛下は雨模様』

 

ここに認められるように、隼人は自身の将来を考えることを苦手としている。では、彼は自身の将来という問題に対して、どのような対応をとっているのか。ここにこそ、諌見隼人の弱さが認められる。瑠波ルートにおいて、瑠波が隼人に頼りすぎていると考え、独り立ちしようと奮起するという場面がある。当初は隼人も瑠波の独り立ちに協力的であったものの、徐々に不安を覚えていく。何故、不安を覚えるのか。それは瑠波が一人でもやっていけるようになることによって、彼の傍を離れるかもしれないからだ。ここには、瑠波が隼人に依存しているように見えて、隼人こそが瑠波に依存しているという構図が認められる。諌見隼人は晴華瑠波に依存している。何故ならば、彼は自身の将来を考えることを苦手としているからだ。自分が何になるか・どのように変わっていくかを決断することを苦手とするからこそ、その決断を相手に仮託する。瑠波の傍に居続けることができれば、彼女の騎士で在り続けることができるからだ。

 

このように、諌見隼人は多くの事柄にそつがないように見えて、自身の将来を選択することを苦手とし、その決断を他者(瑠波)に仮託している。依存しているのは瑠波ではなく、隼人だったのだ。

 

以上の考えを踏まえると、隼人が王国の騎士で在り続けたことの輪郭が見えてくる。

 

「人は誰しも人生の王様である」と言う。人生の王様であるということは、各々が自身の人生に対しての責任を負っていることを意味しているように思える。誰しもが自身に対しての統治者であるのだ。しかし、諌見隼人は自身がどのようにあるかを決断することを苦手とする。つまり、彼は自身を統治することができていない。ゆえに、統治者(殿下・王)ではなく、従者(騎士)で在り続けたのではないだろうか。

 

後書き

 

ということで『神聖にして侵すべからず』の諌見隼人への考えをざっくりと纏めてみました。改めて見てみると、選ばないことも一つの選択であるという問題があって、隼人が統治者ではないと一概には言えないかもしれないなぁ と思いました。このあたりは今後も考えていきたいですね。もしかしたら、また『神聖にして侵すべからず』で記事を書くかもしれません。

 

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『これは学園ラブコメです。』感想

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1 前書き

 

お久しぶりです。ということで、『これは学園ラブコメです。』を読み終えました。今回は本作品への所感を纏めていきます。また、以下の内容にはネタバレが含まれております。ご注意ください。

 

2 あらすじ

 

高城圭は平凡な日常を送っていた。しかし、ある時、不慮の事故に見舞われてしまう。目を覚ますと、圭のまえには白い空間が広がっており、そこには言及塔まどかと名乗る女性がいた。曰く、圭が不慮の事故に見舞われたことで学園ラブコメとしての強度が落ちてしまい、このままでは『これは学園ラブコメです。』の虚構を司る力が崩壊し、「なんでもあり」が侵入してしまう。それを防ぐためには学園ラブコメとしてのシナリオを遂行しなければならない。かくして、圭とまどかは協力関係をとりむすぶ……

 

以上が大まかなあらすじになります。が、これでは説明が不足しがちなため、本作品の背景設定の確認を進めていきます。

 

まず、「学園ラブコメとしての強度が落ちてしまう」とはどのようなことか。これを理解するために本作品の文章を引用したい。

 

「そうだ。性質が互いに結合する力には秩序がある。秩序のもとで、キャラクターが生まれ、さらにキャラクターが筋道だった出来事を起こすことでフィクションができる。決して、なんでもありではないんだ。フィクションをつくる力は秩序だっている」

 

まどかによると、キャラクターはいくつかの性質のもとに成り立っている。たとえば、本作品のキャラクターの一人、河沢素子はピンク髪、ミディアムボブ、元気、世話焼き、料理下手、幼馴染、女性、高校生、可愛い という性質から構成されている。そして、これらの性質が結合する力には秩序がある。本作品では、「ツンデレツインテールと金髪とお嬢様は互いに結びつきやすい」とされている。このように、秩序のもとにキャラクターが構成され、そのキャラクターたちが関係することによって、作品が形作られる。

 

しかし、圭が不慮の事故に見舞われたことによって、『これは学園ラブコメです。』の学園ラブコメとしての強度が落ちてしまった。つまり、学園ラブコメというジャンルもいくつかの性質のもとに成り立っており、不慮の事故という出来事の性質はそれらの要素と噛み合わないと言える。そのため、学園ラブコメとしての強度が落ちてしまったと言えるだろう。

 

次に「なんでもあり」とは何かを確認したい。まどかによれば、

 

「なんでもあり」とは「反秩序的に性質が結合した結果生じるキャラクターと、その集合体であるフィクション」

 

とされている。例として、「髪が赤であり青であるお嬢様」が挙げられている。先述したように、通常のフィクションのキャラクターは何らかの秩序のもとにいくつかの性質が結合することで形作られるが、「なんでもあり」の場合はそれらの性質が無秩序に結合するとされている。だからこそ、そこには「赤であり青」といったように矛盾が生じてしまう。

 

そして、ジャンルとしての強度が落ちてしまうと、他ジャンルの侵入を許してしまうことに繋がり、それが続くと物語の整合性がとれなくなり、「なんでもあり」になってしまう。かくして、圭とまどかは協力関係を結ぶこととなった。

 

以上が背景設定についての確認となります。次に、本作品についての所感の確認を進めていきます。

 

3 所感

 

本作品では、キャラクターの自由意志についての問題が巧みに描かれていました。以下では、そのことの確認を進めていきます。

 

圭とまどかは学園ラブコメとしてのシナリオを遂行するために奔走する。しかし、そのなかで他のジャンルの侵入を許してしまう。それはファンタジーやSFなどのジャンルであり、それらが侵入すると、『これは学園ラブコメです。』のキャラクターたちはそれらのジャンルの秩序にのまれてしまう。そして、圭はある事実に気付いてしまう。ジャンルという秩序がキャラクターを形作るということは、キャラクターがどのような人物であるかは作品のジャンルに従属しているということだ。だからこそ、ファンタジーやSFなどが侵入してくると、キャラクターたちはそのジャンルの文脈に飲み込まれてしまい、その在り方を変えてしまう。

 

そして、このようにキャラクターが秩序に従属しているということはキャラクターは物語の奴隷であり、そこに自由意志は介在しないかもしれない という可能性を浮き彫りにする。

 

その可能性に絶望し、圭たちは「なんでもあり」の侵入を許してしまう。そして、『これは学園ラブコメです。』の秩序は崩壊し始める。しかし、圭とまどかは必死の努力で「なんでもあり」が侵入してくることを食い止める。

 

ここで重要なことは作品の秩序が崩壊してしまったにもかかわらず、圭たち、キャラクターは残存しているということだ。

 

先に確認したように、キャラクターが秩序に従属しているということは事実ではあるのだろう(この作品においては)しかし、それが全てではない。秩序がキャラクターを規定するように、キャラクターが秩序を形作ることもある。だからこそ、「なんでもあり」が侵入してきたなか、圭たちは残存し、新たに秩序を形作ることによって、物語を終わりに導くことができたのだろう。その意味で、キャラクターと秩序の関係性は一方向性のものではなく、双方向性のものであると言えるだろう。

 

しかし、ここで留意しておきたいことは、上位の視点に立つと、「なんでもあり」という無秩序の侵入という一連のストーリもある種の秩序のもとに成り立っているということだ。確かに、「なんでもあり」侵入後の『これは学園ラブコメです。』では荒唐無稽な話が展開され始めるが(それまでにも荒唐無稽な展開は続いていたが)、あくまでも、それは「無秩序の侵入に抵抗し、秩序を作り出す」というラインのもとにストーリが展開されている。そのことから、そこには秩序があると言える。

 

そして、そこには秩序があるということは、圭たちは秩序から解放されたかのように見えて、その実は秩序に従属しているということだ。

 

その意味で、本作品の「キャラクターに自由意志がある」という展開はある種の詐術であると言えるかもしれない。

 

しかし、そうであったとしても、自分は「キャラクターに自由意志がある」かのように思わされた。そこにこの作品の凄みがあるのではないだろうか?

 

4 後書き

 

ということで、『これは学園ラブコメです。』の感想でした。個人的に、楽しむことができました。過去の作品も追ってみたいなぁと思いました。

 

『電波女と青春男』雑感

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電波女と青春男』は、入間人間/著・ブリキ/イラストによる日本のライトノベル、およびそれを原作とするメディアミックス作品[i] である。また、原作は電撃文庫から出版されており、全九巻から成る。

 

さて、本作品は、高校生の丹羽真が、両親の海外赴任から親元を離れ、叔母の藤和女々のもとで世話になるところから始まる。そして、藤和家には自身を「宇宙人」と騙る少女、藤和エリオがいた。真はエリオの奇怪な言動に当惑を覚えつつも、彼女を放っておくことができず、それに巻き込まれていく……

 

以上が『電波女と青春男 一巻』のあらすじとなる。

 

以下では、『電波女と青春男』への雑感を纏める。第一に、エリオの「宇宙人」とは何かを確認する。そして、第二に、何故、エリオは「宇宙人」であることを必要とするかを確認する。最後に、エリオにとっての「宇宙人」を否定することを確認し、これを結びとしたい。

 

1.「宇宙人」とは何か。

 

そもそも、宇宙人とは何か。それを確認するにあたって、エリオの背景への理解が必要となる。そのため、どのようにして、エリオは「宇宙人」となったのかを確認したい。

 

「六月。普通に下校するはずのあの子は気付いたら、十一月の海に浮かんでいた。この間の記憶と足取り、警察が調べたんだけど本当に何も分からなかったらしくて……少なくとも、エリオに、半年間の記憶がないことは証明されてるわ。あの子、簡単に言えば記憶喪失なのよ」[ii]

 

女々によれば、それまでのエリオは普通の高校生だったのだが、その事件を境にして、自分は「宇宙人」であると騙るようになった。つまり、彼女は元から「宇宙人」だったわけではなく、行方不明と記憶喪失という事件をきっかけに、「宇宙人」を騙るようになったと言える。

 

では、エリオにとっての宇宙人とは何か。

 

「昔から宇宙好きな子だったし、記憶がないっていう恐怖から逃避する先に、知識が豊富でごまかしの効きやすい宇宙を題材に選んだってことだと 私は思うの」

 

と、女々は語る。つまり、エリオにとっての「宇宙人」とは記憶喪失という穴を埋めるための逃避先と言えるだろう。

 

 

2.何故、エリオは宇宙人であることを必要とするか。

 

ここまでに、エリオにとっての「宇宙人」がどのようなものかを確認してきた。端的に言えば、「宇宙人」とは記憶の空白という不安からの逃避先と言えるだろう。では、何故、エリオは宇宙人であることを必要とするのだろうか。その答えについてはここまでの流れで明らかになっているところもある。先に確認したように、逃避先としての「宇宙人」はそれへの解答と言えるだろう。しかし、ここでは『電波女と青春男』の描写を取り上げ、そこでの酷薄な現実こそが「宇宙人」という逃避先の切実さを補強しているということを確認したい。

 

さて、話は『電波女と青春男 二巻』に移る。話が前後するが、諸々の事情から、真はエリオの「宇宙人」という幻想を否定し、彼女をただの地球人に戻した。そして、エリオは社会復帰への一歩を踏み出すことを決意する。エリオは社会復帰の一歩として、バイトを始めたいと宣言したのだった。真もこれには賛同し、エリオが社会復帰できるようにあれこれと手助けする。しかし、エリオを待っていたものは酷薄な現実だった。

 

「きみ、あれだよね。町中を布団被って歩いていた子の中身」「きみはねぇ。町の有名人だよねぇ。あんな恰好で歩けるなんて、度胸満点だと思うよ。うん。その割に、なんか慰安はビクビクしてるのはどうしてかなぁ」「でね、まぁ、ウチで働きたいってことなんでしょうけど あのさ、やっぱりさ、変な人を雇いたくはないでしょ?いや 君がね、お店を経営してると考えてごらんなさいよ。布団巻いてる人なんて嫌でしょ」[iii]

 

と、バイトの面接の試験官は語る。ここでの試験官の判断は「正しいか」という問題は置いておいて、経営者としての判断としては妥当なものに思える。しかし、その判断がエリオにとっての酷薄な現実であることは確かだ。確かに、「宇宙人」を騙り、「寄行」を繰り返したのはエリオだ。その意味で、これは因果応報とも言えるかもしれない。だが、このように、異質なものへの酷薄なまなざしは、「何故、エリオは宇宙人であることを必要としたのか」に示唆的だ。

 

ここで、もう一つの事例を挙げたい。エリオは当初の予定のように、バイトの面接を受けたところでは働くことは出来なかったが、女々の伝手もあって、町の駄菓子屋で働くことができるようになった。そのようななか、かつての同級生が訪れる……

 

「学校でのことを思い出してみなよ。ぶっちゃけエリオちゃんって頭おかしいし、あんま関わりたくないでしょ」[iv]

 

と、かつての同級生は語る。このように、かつての同級生は悪びれることもなく、カジュアルに他者への悪意を吐露する。これも、酷薄な現実だ。エリオは社会復帰を目標にして、駄菓子屋で働いているが、そのことは理解されることはなく、一種の営業妨害なのではないだろうかと言われる。もちろん、彼女の社会的な能力に難があることは事実であるのだろうが(それが事実として、何を言ってもよいかという問題はあるが)、ここにも、異質なものへの酷薄なまなざしがある。

 

纏めると、『電波女と青春男』の描写には、ある種の「乾き」が通底している。つまり、異質なものへの迫害のまなざしがそこにはあり、記憶喪失で異質なもののエリオにとって、それは酷薄な現実であるのかもしれない。だからこそ、エリオは宇宙人であることを必要とするのだろう。現実はあまりに酷薄だから、そこからの逃避先が必要なのだ。例え、それが真実ではないとしても。

 

 

3.宇宙人を否定すること

 

ここまでに、エリオにとっての宇宙人は何か、何故、エリオは宇宙人であることを必要とするのかを確認した。先に確認したように、『電波女と青春男』においては、異質なものへの迫害のまなざしにあふれた、酷薄な現実が描かれている。そして、エリオにとって、現実はあまりに酷薄だからこそ、その逃避先が必要なのだ。

 

では、エリオはこのままで良いのか。この問題は難しい。ある意味、エリオにとっての「宇宙人」は信仰のようなものだからこそ、そこに介入することを是とすることは微妙な問題だ。しかし、真はエリオの「宇宙人」という幻想に踏み込む。

 

「腹が立つのだ。宇宙人を後ろ向きに信じていることが、我慢ならない。それは順風とか満帆とか、そういった善意の方向よりも目につき、無視しきれない。神秘とは希望であるべきだった」[v]

 

丹羽真は語る。つまり、彼にとって、逃避のために「宇宙人」という幻想が利用されていることが我慢ならないのだろう。何故ならば、それは後ろ向きなものだから。かくして、真はエリオの幻想を否定しようとする。

 

では、どのようにして、真はエリオの幻想を否定するのか。

 

かつて、エリオは自分が「宇宙人」であると信じ、自転車に乗ったままで空を飛ぼうとした。が、彼女は空を飛ぶことができなかった。そして、真は、エリオと一緒に自転車で空を飛ぶことを提案し、飛べなかったら、自身が「宇宙人」であることを否定することを要求する。このように、真はかつての行いを反復することでエリオの幻想を否定しようとするが、ここには「他者の幻想と付き合うときの手続き」が示されているのではないだろうか。

 

「他者の幻想と付き合うときの手続き」とは何か。それを確認するにあたって、いくつかの部分を参照したい。

 

「見えないものに触れる方法は、信念しかない。そして、その信念を表すのに必要なのは、儀式と祈り」[vi]

 

と、エリオット(a)は語る。突き詰めると、彼の主張は「見えないもの=幻想に触れるための手続き」だ。ここで、事態を分かりやすくするためにエリオの「宇宙人」を挙げよう。エリオにとっての見えないものとは「宇宙人」だ。そして、彼女は「自分は宇宙人だ」という信念を持っている。ただし、信念はそのままでは外界に反映されない。だから、信念を表すには何らかの手続きが必要とされる。それは対象が「あるということにする」というものだ。エリオにとって、それは「宇宙人」としての発言・振る舞い、ひいては自転車での飛行がそれにあたるのだろう。

 

つまるところ、現実において、見えないものを取り扱うためには、何らかの手続きを必要とするということだ。その手続きがどのようなものであるかは対象ごとに異なるだろうが、エリオの場合、「宇宙人」としての振る舞いなどがそれにあたる。いずれにしても、対象が「あるということにする」ということは共通の手続きだ。そのため、エリオットの主張は「ごっこ遊び」の原理に通じるものとも言える。

 

さて、ここまでに「幻想に触れるための手続き」を確認してきたが、これらのことは「他者の幻想と付き合うときの手続き」にも関わってくる。

 

先に確認したように、信念はそのままでは外界に反映されない。だから、信念を表すには手続きが必要とされる。そして、この手続きは「他者の幻想と付き合うときの手続き」にも関わってくる。

 

だからこそ、真はエリオの幻想は偽りだと主張するのではなく、エリオの幻想に乗っかったうえで、それを否定しようとしたのだ。つまり、幻想を否定するためには、外部にいるままにそれを否定するのではなく、幻想に触れるための手続きに則り、相手の世界観に寄り添うことが必要となるのだ。

 

真はエリオの幻想を否定した。それは彼女のそれが後ろ向きなものであり、そのことが気に食わないという理由によるものだった。そのことから、彼の行いはエゴと言える。確かに、『電波女と青春男』においては、エゴのもとにささやかな幻想が否定されるところが描かれているが、そこには「他者の幻想と付き合うための手続き」が示されている。それはある種の倫理と言えるかもしれない。

 

 

後書き

 

ということで『電波女と青春男』の雑感でした。実のところ、全巻を読み終えたあとで書こうと思っていたのですが、ここまでの所感を纏めておきたい、何らかの文章を書きたいという理由があって、これを書くに至りました。また、ここでの感想は一巻~二巻を読み終えてのものなので、全巻を読み終えた後に別の感想を書くと思います(恐らく)

 

(a)  エリオットとはエリオの父親である。現在は家を出ている。

 

 脚注

 

[i] 『電波女と青春男』wikipedia

[ii] 入間人間電波女と青春男』P149

[iii]入間人間電波女と青春男 二巻』P84~85

[iv]入間人間電波女と青春男 二巻』P121

[v] 入間人間電波女と青春男』P217

[vi] 入間人間電波女と青春男 二巻』P295

『死神の精度』対談 告知

お久しぶりです。今回の記事は告知になります。この度、『止まり木に羽根を休めて』の管理人のfee さんと『死神の精度』の対談を行いました。

全部で三回ぐらいの連載になると思います。ぜひ、ご覧ください!

 

対談につきましてはこちらをご覧ください。

 

内容(*以下のリンクは対談の記事が更新されるたびに更新されます)

 

第一回 『死神の精度』『死神と藤田』『吹雪に死神』

 

第二回 『恋愛で死神』

 

第三回 『旅路を死神』『死神対老女』